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太田城 ~日本三大水攻めの舞台~

紀伊半島の旅5日目は、やや遅めの時間に和歌山市街のホテルを出発。

本日最初に向かったのは和歌山駅東の太田地区にある来迎寺。この寺を中心とした一帯が太田城の跡地で、備中高松城、武蔵忍城ととも日本三大水攻めのひとつに数えられる戦いが起きた場所でもあります。



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説明板発見

太田城は現在の来迎寺、玄通寺を中心に東西に二町半(約273m)、南北に二町(約218m)と言われているが、近年の発掘調査からはほぼ二町半の四方であった。そこに周囲に深い堀をめぐらし、塁上は土壁とし、各所には高い櫓を設け、城門は大門、南大門、西北門があり、平城であるが当時の城としては強固な城造りであったと思われている。その東に大門は和歌山市指定文化財として和歌山市橋向丁の大立寺に移築されている。太田城の戦いは備中高松城、武蔵忍城ととも日本三大水攻めのひとつに数えられる。現在、太田城周辺は開発によって住宅地となっていることもあり、その全貌を明らかにすることは困難な状況になっている。 (wiki参照)



太田城の水攻めについては私も詳しくなかったので、記事を書く段になって初めて知ったことも多くありました。
この機会にwikiの記載を張っておきます。文章や表記に乱れが多かったので多少手を加えてあります。

延徳年間、紀伊国造第64代紀俊連が神領保護を目的として秋月城三葛城太田城を築城したと伝わっている。一説には延徳年間ではなく文明年間とも言われている。全国的に名を馳せたのは天正4年(1576)に太田左近が修築もしくは築城した太田城に対して、天正13年(1585)3月、天下統一をめざす羽柴秀吉が自ら軍を進めた太田城水攻めである。

太田城を攻城した秀吉の兵力は6万とも10万ともいわれている。対する太田衆と根来衆の残存兵力を合わせてもわずか3千-5千で、この時雑賀衆の一部は秀吉と手を結び、また総本山であった根来寺も焼かれ、孤立無援の絶望的な状況であった。しかし、太田左近は城兵に対して「小城ではあるが堀は深く櫓は高い。一度秀吉に弓を引いたのだから、大軍を恐れて降参するのは、勇士のすべきことではない。この城を枕に潔く戦死する覚悟だ」と説いて士気を鼓舞した。
秀吉は堀秀政が率いる先陣3千と長谷川秀一が率いる第二陣3千の合計6千の斥候隊を繰り出して太田城へ向けて攻撃を開始した。田井ノ瀬橋付近から紀ノ川を渡河したが、そこに太田城からの待ち伏せがあり鉄砲隊と弓隊から攻撃され53名が討ち取られた(別説では51名とも)。斥候隊の敗北により容易には攻め切れずとみたのか得意の水攻めに切り替えた。
同年3月25日(28日という説もあり)、紀の川の水をせき止め、城から300m離れた周囲に堤防を築いた。300mというのは鉄砲の射程距離と思われる。堤防の高さは3-5m、幅30mで東の方は開け、6kmにも及んだと言われている。工事に要した人数は46万9200名。昼夜突貫工事で6日間で仕上げたと考えられている。同年4月1日より水を入れ始め、4月3日から数日間大雨が降り続け、水量が増し始めた。そのため城の周りは浮城のような状態になった。秀吉は太田城から北1kmの黒田という場所に本陣を構えたとされているが、跡に関しては明らかになっていない。
水で囲まれた太田城に秀吉は中川藤兵衛に13隻の安宅船で攻めさせた。船の先端には大きな板を建てて、鉄砲や弓矢から攻撃から守るため改造したが、太田城の城兵の中で水泳の名手を選び、船底に次々と穴をあけ沈没させ、また押し寄せる攻城兵には鉄砲で防戦した。また同年4月9日、松本助持が切戸口間の堤防150間決壊させ、宇喜多秀家の陣営に多くの溺死者を出した。この時秀吉側は60万個の土俵を使って数日に堤防を修復したと伝わっている。
太田城では、増水するにつれて工夫して防衛してきたが、1ヵ月になる籠城に次第に物心両面で衰えが見え始め、同年4月24日蜂須賀正勝、前野長康の説得に応じて、太田左近をはじめ53名が自害した。根来寺落城から1ヵ月の事であった。53名の首は城の三箇所に埋められた。そのうちの一つが「小山塚」で、現在玄通寺の近くに大きな碑が建っている。




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太田城水攻遺蹟 小山塚

wiki紀州征伐太田城攻防戦の記載では以下の通り。

太田城はフロイスが「一つの市の如きもの」と表現したように、単なる軍事拠点ではなく町の周囲に水路を巡らした環濠集落である。この城を秀吉は当初兵糧攻めで攻略する予定だったが、兵糧攻めでは時間がかかりすぎるために水攻めに変更した。強攻ではなく持久戦を選択した理由として、兵力の損耗を防ぐこともさることながら、犠牲が増えることによって苦戦の印象が広まるのを回避するためだったと思われる。これに先立つ和泉千石堀城の戦いでは、城の煙硝蔵が爆発したために1日で攻略できたものの攻城側にも多大な犠牲が出ており、太田城でその二の舞を演じることを恐れたと考えられる。また一面では、本来太田城を守る存在であった水を使って城を攻めることで、水をも支配する自らの権力を誇示しようとしたとも考えられる。水攻め堤防は全長7.2km、高さ7mに及んだ。
上方勢は秀吉自身を総大将、秀長と秀次を副将として、その下に細川忠興・蒲生賦秀・中川秀政・増田長盛・筒井定次・宇喜多秀家・長谷川秀一・蜂須賀正勝・前野長泰などの編成だった。3月28日から築堤が開始された。この築堤工事の途中、甲賀衆の担当部分が崩れたため、甲賀衆が改易流罪となり、山中大和守重友は所領を没収された。4月5日までには完成し、注水が始まる。一方城の北東には以前から治水及び防御施設として堤(以下これを横堤と呼ぶ)が築かれており、籠城が始まると城方によってさらに補強された。横堤の存在によって城内への浸水は防がれた。
4月8日、横堤が切れて城内へ浸水し、城方を混乱に陥れた。ところが横堤が切れたために水圧に変化が生じたことで、翌9日には逆に水攻め堤防の一部が切れ、寄手の宇喜多秀家勢に多数の溺死者が出た。籠城側はこれを神威とみなした。攻城側は直ちに堤防の修復にかかり、13日までには修理を完了させた。17日に織田信雄、18日に徳川義伊と石川数正が雑賀を訪れる。
秀吉は当初、水攻めが始まれば数日で降伏させられると考えていた。しかし一度破堤したことで籠城側は神威を信じ、粘り強く抵抗していた。4月21日、攻城側は一気に決着をつけるべく、小西行長の水軍を堤防内に導く。安宅船や大砲も動員してのこの攻撃で、一時は城域の大半を占拠した。だが城兵も鉄砲によって防戦し、寄手の損害も大きく撤退した。攻略には至らなかったがこの攻撃で籠城側は抗戦を断念し、翌22日、主だった者53人の首を差し出して降伏した。53人の首は大坂天王寺の阿倍野でさらされた。また主な者の妻23人を磔にかけた。その他の雑兵・農民らは赦免され退城を許された。
秀吉は降伏して城を出た農民に対し、農具や家財などの在所への持ち帰りを認めたが、武器は没収した。これは兵農分離を意図した史料上初めて確認できる刀狩令と言われる。宮郷の精神的支柱だった日前宮は社殿を破却され、社領を没収された。



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所在:和歌山県和歌山市太田2丁目
評価:★☆

本丸跡と伝わる来迎寺近辺には特に遺構はないので、遺構目当てではなく歴史を感じたい人におすすめ。確認していませんが、周辺には水攻めの築堤が部分的に残存する場所もあるようです。また市内大立寺には移築門が現存します。
・・・何か忘れていると思ったら、城址碑を撮影してないじゃん!説明板を発見できて安心しちゃったのかも。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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