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和歌山城⑦ ~夜空に浮かぶ南海の鎮~

和歌山城完結に向けてラストスパート。実際はもっといろいろ細かい部分の写真を撮ってあるのですが、きりがないのでここまでもかなり端折って掲載しています。



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護国神社の鳥居の手前に残る門跡の形状の石垣。この場所の西側には城の搦手に当たる門があります。



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追廻門(市指定文化財)

砂の丸の乗馬調練場と門外の扇の芝馬場を結ぶ門である。馬を追い回したことからそう呼ばれた。姫路城などに見られる旧型の高麗門である。1984年(昭和59年)から翌1985年(昭和60年)にかけての解体修理により、江戸時代には朱が塗られていたことが分かり、赤門であったと見られている。赤門は御守殿(三位以上の大名家に嫁いだ徳川将軍家の娘)の住む御殿の門として建てられる、または御守殿を迎えた折りに門を赤く塗られたものをいうが、和歌山城の場合は二の丸の「御座の間」(藩主の居所)から見たとき裏鬼門(坤(南西))の方角に当たるため、魔除けのために赤く塗られたと推測されている。 (wiki参照)




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幕末に追廻門で暗殺された田中善蔵の肖像画(現地説明板より)

1825-1867 江戸時代後期の武士。
文政8年生まれ。紀伊和歌山藩士。仁井田南陽にまなび、藩校学習館の授読、のち奥右筆となる。津田出のもとで財政改革にあたるが、俸禄削減案をめぐって対立がおき、慶応3年11月12日登城の途中、反対派の堀田右馬允らに殺害された。43歳。 (コトバンク参照)


追廻門を出て左手先に田中善蔵の顕彰碑が建っています。



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再び城内、砂の丸広場。砂の丸は南側の護国神社周辺と北側のこの砂の丸広場を合わせた細長い広大な曲輪であったようです。西側の城外とは高い石垣で隔てられています。上に登れるようなので、せっかくなので登ってみますか・・・



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斜度45度以上と思われる少々危うい石段を登ると、眼下には追廻門が。また山上の乾櫓の姿もよく望めます。時刻は17:20を過ぎ、帰宅第一陣と思われるサラリーマン風の姿や颯爽と自転車を駆る人の姿が増えてきました。市街地のど真ん中に広大な敷地の城があるので、城内を自転車でショートカットすれば下手に車を乗り回すより短時間で移動できるのでしょう。

石垣の上も歩けるのですが、あまり整備はされていないようで草が大繁殖。やむなく一番草の密度が低い石垣突端に沿って進む(*非推奨)。かなり頑張って移動したのですが、苦労に見合った見返りが皆無なことに気づき、次の降り口で下へ(この石垣は登り口が複数設置されています)。



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降りた石段は体感で斜度60度はあったような・・・



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鶴の門跡

砂の丸から二の丸へと通ずる道で、ここを降りると鶴の渓と呼ばれる少しくぼんだ地形となっています。
浅野家が城主時代にここで鶴を飼っていてこの名前がついたということです。



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勘定門跡(鳥居の奥の石垣部分)



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吹上口と西堀

吹上口は和歌山城内郭の北西部入口で、西堀には吹上橋が架かっており、橋の南詰には高麗門形式の吹上御門がありました。しかし明治期以降改変が加えられ、内郭周辺では最も原形を留めていない部分となっています。



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さて、その①でも触れた「わかやま歴史館」。天守入城チケットを購入したときこちらの歴史館の入場券もセットで付いてきたので、これは入っておかないともったいないと勇んで参ったわけですが、案の定入館時間が終了となっていました。最初に立ち寄っておけばよかったなあ。



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2015わかやま国体まであと16日



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御橋廊下と天守群

岡口門越しの天守と並ぶ城内屈指の撮影スポット。和歌山城の写真を1枚だけ選ぶならこの場所からの写真になるでしょうか。



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夕陽に照らされる天守群



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北内堀と二の丸石垣 現在(上)と明治初年(下)

北内堀は和歌山城の外郭である三の丸(現在の番町)と内郭を隔てる堀で、往時は堀幅約41mありましたが、明治期に市電の複線化のため埋め立てられ、現在の約25mに縮小されました。
二の丸側の石垣の上には、東から月見櫓・物見櫓・駿河櫓の二階建て櫓が設けられ、それぞれ多門や土塀で結ばれていました。現在は櫓台のみ残ります。



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一の橋と大手門 現在(上)と明治初年(下)

大手門(追手門)とは城の内郭に入る正面の門です。和歌山城は天正13年(1585)に羽柴(豊臣)秀吉の命で弟の秀長が築城し、家老の桑山重晴を城代として置きましたが、この時は岡口門が大手門でした。慶長5年(1600)、関が原の戦いの後に和歌山城主となった浅野幸長は、城の大規模な修築を行いました。浅野期の途中で内郭の北東部のこの位置に橋をかけ、門を設置して大手としたのです。紀州徳川家も引き続きここを大手としましたが、橋を「市之橋」、門は「市之橋御門」と呼んでいました。それが寛政8年(1769)から「大手御門」と改称し、橋は「一の橋」に変えたのです。
大手門は高麗門形式の門で土塀や多門が連なり、西の石垣上には月見櫓が建っていて、一の橋には高欄擬宝珠が付けられていました。『紀伊国名所図会』を見ると、登城する重臣たちは橋の手前で駕籠や馬から降りなければならず、同道した重臣の家来は槍を立てかけて待合所で待機しています。
大手門は明治42年(1909)5月に倒壊しましたが、昭和57年(1982)3月に再建され、翌年3月には一の橋が架けかえられました。 (説明板参照)




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『紀伊国名所図会』大手御門辺の図



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手早く見学

大手門からは市電の敷石が敷かれており、一中門跡を経由し表坂近くまで延びています。



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北内堀から広大な東堀へ連結



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大手門前の一角は家老三浦家の上屋敷があったところ



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大手門前にあるモンティグレ内の本屋に立ち寄っていたところ、気が付いたら完全に日没。
ふと城を見ると、きれいにライトアップ!

心に残る光景となりました。



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所在:和歌山県和歌山市一番丁
評価:★★★★★

典型的な近世平山城。規模も縄張りも普請も高レベルで、天守からの眺めもよく城内には説明板が豊富、さらには遺構以外の見どころもあったりと、文句なしに楽しむことができました。さすが御三家の城、南海道の重鎮たる格式にふさわしい城郭といったところです。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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