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和歌山城③ ~日本三大連立式平山城~

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本丸御殿跡から見た天守拡大



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天守へ向かいます。この場所も門跡であったようです。
スロープはバリアフリー対策でしょうか。この場所だけに設置して幾何の効果があるかは不明。



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このあたりの石垣の規模も中々のもの



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まりと殿さまの歌碑

てんてん手まりは 殿様に
だかれてはるばる 旅をして
紀州はよいくに 日のひかり
山のみかんに なったげな
赤いみかんに なったげな


「まりと殿さま」(作詞:西條八十、作曲:中山晋平)の第5番目の歌詞を西條八十が直筆し、それを歌碑にしたもの。今も天守からこの曲がチャイムで流されています。

城の遺構しか見ないような探索ばかりしていると自らの知的好奇心の幅も狭まってしまうので、遺構以外にも現地で見つけたものはできるだけ興味を持つようにしています。
で、『本当は恐ろしいグリム童話』じゃないけど、童謡って奥が深いことが多いですよね。
 ↓
<参照サイト:奇想天外「毬と殿さま」



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天守下に到着

大天守は3重3階ですが、三層とは思えないほどの存在感を受けます。三層天守としては日本でも最大級のものかもしれません。この天守は大天守・小天守と乾櫓・二の門櫓・楠門を多聞(渡櫓)によって連結させた連立式天守で、同様の形態である姫路城松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられています。



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豊臣秀吉の弟・秀長は、1585年(天正13年)の紀州征伐の副将として参陣し、平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増された。当時は「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、自ら「吹上の峰」を城地に選定し縄張りを行った。普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親、横浜良慶を任じ、1年で完成させた。この際に和歌山と改められている。

1586年(天正14年)、桑山重晴に3万石を与え城代に据えた。重晴は本丸を中心に手直しを行った。1596年(慶長元年)重晴隠居に伴い孫の一晴が城代を継いだ。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後、東軍に属した桑山一晴は正式に紀伊和歌山に2万石を与えられたが、まもなくして大和新庄藩に転封となった。その後、同じく東軍に属した浅野幸長が軍功により37万6千石を与えられ紀州藩主となり入城した。幸長も引き続き城の改修を行っている。1605年(慶長10年)頃、下見板張りの天守が建てられた。その後、長晟が土塁から石垣に改修した。

1619年(元和5年)、浅野氏は改易となった福島正則の後、広島藩に加増転封となった。代わって徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立した。頼宣は兄の2代将軍徳川秀忠より銀5千貫を受領し、これを元手に1621年(元和7年)より城の改修と城下町の拡張を開始した。しかし、この改修が大規模であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであった。

1655年(明暦元年)11月、西の丸に隣接する家臣屋敷より出火。西の丸・二の丸に延焼した。1813年(文化10年)には西の丸大奥より出火し西の丸御殿が全焼した。

1846年(弘化3年)7月26日に雷雨があり、天守曲輪に落雷。御殿を除く大小天守など本丸の主要建造物が全焼した。当時の武家諸法度では天守再建は禁止されていたが、御三家という家格により特別に再建が許可され、1850年(嘉永3年)に大小天守等が再建された。 (wiki参照)




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1871年(明治4年)、全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)により廃城となり、多くの建造物が解体もしくは移築された。二の丸御殿は、1885年(明治18年)に大坂城へ移築され、1931年(昭和6年)より大阪市迎賓館(紀州御殿)として使用され、戦後米軍施設として使用中1947年(昭和22年)失火により焼失した。
1901年(明治34年)に本丸・二の丸一帯が、和歌山公園として一般開放された。
1931年(昭和6年)に国の史跡に指定され、1935年(昭和10年)には、天守など11棟が国宝保存法に基づく国宝に指定された。しかし、1945年(昭和20年)7月9日のアメリカ軍による大規模な戦略爆撃(和歌山大空襲)により天守などの指定建造物11棟すべてを焼失した。
1957年(昭和32年)、岡口門とそれに続く土塀が国の重要文化財に指定された。翌1958年(昭和33年)に天守群が東京工業大学名誉教授・藤岡通夫の指示を受け、鉄筋コンクリートにより再建された。
1983年(昭和58年)には1909年(明治42年)に老朽化し崩壊した大手門と一之橋が復元された。
2006年(平成18年)4月、二の丸と西の丸を結んでいたとされる御橋廊下の復元工事が竣工した。また、同年4月6日、日本城郭協会から日本100名城(62番)に認定された。
2010年(平成22年)6月から、2011年(平成23年)2月にかけて、大天守(1層)や天守曲輪の一部に対し、クリーニング及び再塗装を実施した。 (wiki参照)


渡櫓で連結された内部が天守曲輪となっています。周囲を見てみましょう。



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二の門櫓下

南西側から右回りで一周してみます。



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乾櫓下

各櫓下には石落としが設置されています。



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小天守下

天守曲輪は菱形のような敷地になっており、北西の乾櫓と南東の大天守が張り出し、それぞれの方角からの姿が雄大さを増すように工夫されています。



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小天守下にある埋門跡

天守裏門に当たり、天守曲輪内の御台所から水の手(黄金水)へと通じる門としてつくられていたと考えられています。昭和20年7月の和歌山大空襲で外側の扉は焼け落ちましたが、周囲の石垣は残り埋門の姿をとどめています。



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石垣に転用された宝篋印塔

天守曲輪石垣には転用石が多く使用されています。石垣好きの方は意識して探してみるのもよいでしょう。



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それでは内部へ。天守曲輪内入城料金は大人410円。10円値上げしたようです。
100名城スタンプ設置場所もこの料金所。スタンプはゴム印タイプで状態は普通。押印スペースが限られていますが、後ろに人が並んでたりもしないので焦ることなく無事押印。これにて91城目。



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立派な門構え

人がいないのでゆったり登城できますが、本来なら比較対象のためにあえて人物を写り込ませたいくらいなんですけれどね。



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天守二の門(楠門)

総楠造りであったため楠門と称されていました。
戦災で焼失した天守曲輪で唯一木造で復元されています。



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楠門をくぐり天守曲輪内から



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二の門櫓



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乾櫓

このほか天守曲輪内には虎伏山の三角点や三宝柑の樹とその由来の掲示などがあります。



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大小天守

1850年(嘉永3年)再建当時の大天守は3重3階で、天守台平面が菱形であるため、初重に比翼入母屋破風を用いて2重目以上の平面を整えている。南面に入母屋出窓があり、初重には曲線的な石落としが付けられていた。焼失した天守の創建年は不明であるが、それについては浅野幸長が創建したとする説(1600年(慶長5年)築)と頼宣が創建したとする説(1619年(元和5年)築)がある。創建時は、下見板張りの壁面であったと考えられている。

1847年(弘化4年)に焼失した際、大天守を5重にする案も出され、天守雛形(木組み模型)と図面が作成されたが、幕府への遠慮と財政難のため、構造は先代天守を踏襲し外部壁仕上げを下見板張りから白漆喰総塗籠めへ意匠を変えるにとどまったものとみられている。

天守は国宝(旧国宝)に指定されていたが、和歌山大空襲で焼失し、現在のものは、1850年(嘉永3年)の天守再建時の大工棟梁・水島平次郎の子孫である栄三郎が所蔵していた天守図と『御天守御普請覚張』を参考にして1958年(昭和33年)に再建されたものである。復元には東京工業大学名誉教授藤岡通夫の指示を受け、鉄筋コンクリート構造による外観復元とされた。復元設計にあたり、参考にされていた文献や図には天守群の高さが記入されていなかったため、焼失前に撮影された写真に写る他の建造物との高低比から天守群の高さが算出された。 (wiki参照)




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それでは天守内に入城しましょう。


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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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