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和歌山城② ~石段を登る人の形の・・・?~

西の丸庭園から、続いて御橋廊下へ。



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御橋廊下

二の丸と西の丸をつなげる橋。藩主とお付きの人だけが行き来するために架けられ、外から見えないように屋根と壁が付けられていました。斜めに架かる廊下橋は全国的にも珍しい構造。



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御橋廊下は江戸時代の図面をもとに復元されており、実際に通ることができます(無料)。

靴を脱いでいざ中へ。



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きれい

長さ:約26.7m
幅:約2.95m
勾配:約11%



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二の丸側からの写真

下からの写真だとわかりにくいですが、勾配があるために廊下内は小さい段が重ねられています。
ゆっくり歩かないと足の裏にダメージを負います(笑)



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廊下の中から

左手西の丸、右手二の丸。二の丸のほうが高さがあります。



動画



平日の午後ということもあって独占状態



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渡り終わって二の丸側から

ここを通れるってお得感があっていいですね。



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天守を仰ぎ見る

天守群はまだまだずっと上にあり、本格的な平山城です。

写真手前に見える石列は発掘調査により発見された多門櫓の礎石列。
江戸期には御橋廊下が架かる石垣上には南北に5棟の多門櫓が建てられていました。



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天守拡大

この場所は天守撮影スポットの一つとしておすすめ。



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穴蔵状遺構

発掘調査により発見された遺構。特定の物を収納する施設であったとされる。江戸城の大奥付近にある石室との関連性にも触れられており、非常の際、大奥用の調度などが納められたところとも考えられています。
明暦元年(1655)の火災以降、入口が閉ざされ埋め立てが行われており、御橋廊下が架かっていた時期には利用されていなかったようです。



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二の丸跡(大奥部分)

初代頼宣と14代茂承以外の藩主は、二の丸御殿に住んでいた。また、二の丸御殿は江戸城本丸御殿を模していたため、表・中奥・大奥に分かれていた。大奥があるのは、江戸城和歌山城名古屋城のみである。表は紀州藩の藩庁、中奥は藩主が執務を行う普段の生活空間、大奥は藩主の正室や側室たちの居所として機能した。現在、二の丸御殿の表・中奥に相当する場所は広場として開放され、大奥に相当する場所は芝生が養生され整備されている。 (wiki参照)




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各種説明板も充実しています。現地では時間節約のために写真を撮ってタッチアンドゴーですが、記事を書く段になって改めて読み返してみると大変参考になります。大奥部分だけでもこれだけ広大なら、二の丸御殿全体だとどれだけの建築物が建ち並んでいたのでしょうか。



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現在地はコチラ



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裏坂登り口 近道 →
この坂を登ってみましょうか。
門の手前で道案内マップを入手。わかりやすく図示されているので便利。
「善意の杖」なんてのもありましたので、足腰の弱い方は利用したほうが良いでしょう。



PA080275.jpg 石垣を登る
裏坂の入口は虎口状になっており、門跡の内側は合坂になっています。このときは特に気にも留めていなかったのですが、改めて現地で入手した地図を見てみると「石段を登る人の形の・・・?」という記載があります。なんのこっちゃと思い少し調べてみると、ちょうどこの場所に石段を登る人のような形をした根っこがあったということが判明。「あー、探しておけばよかったなあ」と思い写真を見直すと、奥にちゃっかり映っていました(笑)。拡大して載せておきます。



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銀明水

裏坂を少し登ったところにある井戸で、籠城時には非常用水となります。
このほか城内には40ヶ所以上の井戸があるということです。



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裏坂は少し急坂になっていますので、自分のペースで登りましょう。距離はそれほどありません。
このあたりの石垣は緑色片岩(紀州青石)を中心とした野面積みで、主に豊臣・桑山期に築かれたもの。



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裏坂を登り切ったところにあるのは本丸裏門跡。和歌山城のある虎伏山の山上部は、ラクダの背のように東西に二つの峰があり、裏坂はその鞍部につながります。



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二つの峰の一つ・本丸御殿跡

浅野氏時代にはすでに御殿が建てられており、紀州徳川家初代・徳川頼宣が入国すると本丸御殿となります。頼宣と正室・瑤林院(加藤清正の娘)の邸宅と定めた本丸御殿は地形的に手狭で不便なため、2代目以降は時に謁見の場として利用するくらいで、ほとんど空屋敷となりました。例外的に幕末短期間ではありましたが、参勤交代が中止となり、江戸藩邸にいた藩主の正室たちの帰国が許されると、14代・徳川茂承と正室・倫宮則子女王(伏見宮邦家親王の娘)が邸宅に定め一時使用しています。また、倫宮則子女王が住んだため、宮様御殿とも称されました。



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現在は給水場施設となっており立ち入り禁止

本丸御殿の敷地は不等辺五角形をしており、元和7年(1621)に造られた本丸庭園には宝船を模した七福の庭がありましたが、給水場設置に伴い、七福神を表現した石組は大正12年(1923)に松の丸へ移築されました。



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本丸御殿跡からみた天守

右下の男性が立っているところが本丸裏門跡で、礎石が残っています。


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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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