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上野山城 ~田辺の街を見渡す城~

別名八王子城とも。
南北朝の頃、湯浅氏が江川浦八王子山口に砦を構え、八王子砦と称した事から始まるといいます。

田辺城水門から会津川を渡り、田辺第三小に向かう道に入る。
小学校を左手に過ぎた先の分岐路を右へ。標柱が目印。



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その標柱

なおこの標柱、南側から進んでくると「出立王子跡」の表示面が正面に見えるので注意。私は標柱の認識はしたものの、表示を見て一回ここを通り過ぎてしまいました(写真は帰路に撮ったもの)。



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上の標柱の所から東へ入ると「八立稲神社」下に出ます。たいてい神社用の無料駐車場があるものですが、ここの駐車場は保育園の送迎用駐車場を兼ねているようで、私の訪問時にも多くの車が止まっていました。なぜかその場所に立っていたおじさんに誘導整理してもらい、狭いスペースに何とか駐車。もしかしたら保育園の保護者が集まる日か何かだったのかも。
ちなみに先人たちの記録を見るとこの神社のすぐ下にあるのは「上野山幼稚園」となっていますが、私の訪問時には「うえのやまっこ保育園」という名称になっていました。



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写真ではわかりにくいですが、神社下も階段が続いており要害性はあります。



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さらに高台の八立稲神社へ



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八立稲神社社殿

天文22年(1552)、湯川荘司が守護畠山氏にそむいた為、畠山氏は山本掃部広信に湯川荘司を撃つ事を命じます。これに荘司は降伏し、畠山氏は広信にこの砦を与えました。
天正18年(1590)、大和大納言豊臣秀長の家臣・杉若越後守無心が芳養泊城より 当地に移り「上野山城」として改築に当たり、九品寺を移して城の広間とし、田辺新熊野社の門を城門としました。この城門を移した後、城内に毎晩怪しげな光が惑ったといい、新熊野権現のたたりとして取り払われたという伝説が生まれています。



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百度石

文禄年間(1592-1595)に杉若氏宗が家督を相続し、上野山城主として紀伊国田辺1万9000石を領します。氏宗は父や同じ水軍の堀内氏善らと文禄の役に従軍し、休戦期から慶長の役にかけて加徳倭城の桑山一晴・貞晴と共に城番となります。



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由緒記

慶長5年(1600)の関ケ原合戦では、杉若無心・氏宗親子は西軍に属し、大坂玉造口を守備。9月には大津城の戦いに参加しますが、本戦での敗報を聞き降伏。続いて徳川家康からの命により新宮城の攻撃に参加し、落城させた後もしばらく駐屯し本領安堵の知らせを待ちますが、結局紀州は浅野幸長が37万石で和歌山城に入城、田辺には浅野左衛門が上野山城に入った。 これにより杉若氏は改易となり、杉若氏宗は逐電し、以降の足跡は不明となります。



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なお城の表示物ですが、1枚目の写真の標柱の裏側に「上野山城」の表示があります。
表示物が発見できずに少し焦りましたが、これにて一安心。



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所在:和歌山県田辺市古尾
評価:★☆

上野山丘地に築かれた丘城で、田辺の街を眼望できる好立地であり、ここに城が築かれたことも納得です。意外と城砦としての歴史は長いものの、明確な遺構は残っておらず、その規模や縄張りなど不明な点が多いものになっています。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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