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新宮城② ~新宮のもののけ姫~

本丸内に入ったところから再開。



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本丸虎口



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再掲 本丸からの眺め

この場所からは鐘ノ丸や眼下の水の手を見ることができます。



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見事な光景

熊野川は要害であると同時に、水運を利用しての経済の要でもありました。



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突端を歩くの好き



ここまでの流れを動画で



撮影しながら歩くのは距離感がつかみにくく極めて危険



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本丸北側、「折れ」のある塁壁とその先にある出丸



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「正保城絵図」には出丸に通じる門のようなものが描かれていますが、現状は本丸から直接出丸へは抜けられません。絵図には出丸に建物は描かれていませんが、熊野川に突出する最先端の目立つ場所に位置しており、何かしらの建物があったとしても不思議はないでしょう。



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oops!



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本丸北東面、これも正保城絵図には描かれていませんが、造り的に搦手口とみて間違いなさそうです。
絵図を提出した後に造成されたものか、あえて絵図には描かなかったものか。
現状は先がフェンスで塞がれていて通行不能。



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本丸の奥に佇む「丹鶴姫之碑

丹鶴というと、この城の別名でもあり、現在の公園名でもありますね。
何か由来がありそうです。



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丹鶴姫はその出自定かでない源為義と熊野別当の娘 立田御前を父母とし「たつたはらの女房」と呼ばれ 頼朝はその甥にあたる弟に新宮十郎行家あり共に新宮で育つ 長じてこの丹鶴山に東仙寺を開基し熊野別当行範に嫁した 夫亡きのち鳥居襌尼と号し 紀伊国佐野庄などを安堵され 没後山麓に葬られたという 茫々八百有余年 丹鶴城址に立ちて弔えば源家興隆を祈念した姫の魂魄 見張るかすわだつみより清風に乗って来たるの想いがする 冀くは芳魄この地に留まりてとこしえに熊野の天地を守り給わらんことを(碑文参照)


もともと田鶴原と称されたこの地には、平安時代末に熊野三山を支配した熊野別当の別邸が建てられ、その後代々が居住したといわれる。源為義は、熊野別当の娘のもとに通い1女1男をもうけたが、その女子が丹鶴山および丹鶴城の別名の由来となった丹鶴姫である。丹鶴はのちに熊野別当第19 代となる行範(ぎょうはん)に嫁ぎ、行範が死去すると剃髪して鳥居禅尼と名乗り、1130年(大治5年)、丹鶴山に夫の菩提を弔う東仙寺を建立した。(wiki参照)


鎌倉幕府をひらいた源頼朝と、平家を倒したあと悲劇的な最期を遂げる源義経。歴史に名をとどめるこの兄弟の叔母にあたるのが、新宮が産んだ女傑・丹鶴姫だ。丹鶴姫の父・源為義は武家の棟梁であり、源氏の総帥でもあった八幡太郎義家の孫。この為義が後白河院の熊野御幸に検非違使として随行した際、第15代熊野別当・長快の娘をみそめて結ばれる。 「熊野の女房」とか「立田の女房」とか呼ばれていた彼女は、生地の新宮で一女一男を産んだ。女児が丹鶴姫で、男児が新宮十郎行家だ。為義の10男として生まれた行家は、最初は源氏の御曹司らしく「義」の一字をいただいて「義盛」と名乗っていた。新宮で生まれ育った行家が天下の争乱のまっただなかに乗り出すきっかけとなったのは、同じ源氏の源頼政の口ききによる。まっさきに平家に反旗をひるがえした頼政にとって、血筋がよく、弁舌達者な行家は重宝な存在だった。頼政は行家を八条院蔵人に推したうえ、「平家を討つように」という以仁王の令旨(命令書)を伝達する使者として白羽の矢をたてた。行家は熊野の山伏姿に身をやつし、近江、美濃、尾張と源氏の残党を説いてまわった。旧名の「義盛」から「行家」に改名したのは、熊野別当第19代の行範とのかかわりを強調する「行」がついているほうが諸国に散らばっている熊野山伏たちの庇護を受けられたからだろう。

 以仁王の令旨を携えた行家は、治承4年(1180)5月1日、鎌倉の北条館に到着した。令旨を受け取った頼朝は、水干の装束をつけ、男山八幡宮に向かって遥拝してから目を通したという。鎌倉から信濃へと足を伸ばした行家は、甥の木曾義仲に会って挙兵を説いた。行家には全国に散らばった熊野山伏の情報のネットワークによるすぐれた情報収集能力と、コーディネーターとしての才能があり、それは源平抗争の時代では群を抜くものがあった。 ただ、行家には姉の丹鶴姫に従う熊野水軍の一部はついていても、頼朝に従った坂東武者のような強力な手勢はなく、また義経を支えた奥州の藤原秀衡のような財力、あるいは弁慶のような忠実な部下にも恵まれていなかった。いわば、徒手空拳で権謀術数のかたまりのような公卿たちと荒っぽい東国武士たちの間を渡り歩かなければならなかったのだ。日本史上、天下の情勢を一変させるほど縦横に活躍した最初の熊野人といえる行家だが、もしも義仲や義経がもっていたような兵力に恵まれていれば鎌倉幕府をひらいた頼朝をしのぐ政治家となっていたかもしれない。

 一方、姉の丹鶴姫は、第18 代熊野別当湛快の妻となって男児を産んだ。それがのちに第21代別当となる湛増だ。夫の湛快の死後、19代別当行範(鳥居法眼)のもとに再嫁したとされる丹鶴姫は、22代別当行快や行忠、長詮を産み、鳥居禅尼と称して、源平のパワーゲームに揺れる新宮にあって強力な熊野水軍を源氏方につけるのに大きな役割を果たした。義仲の挙兵、頼朝の義仲討伐にも、また義経が一の谷で平家を破ったときも事態を静観していた湛増は、戦局が進むにつれ、源平いずれにつくか迷った。そこで、湛増は田辺の今熊野権現(闘鶏神社)の社前で白い鶏7羽、赤い鶏7羽を蹴合わせて神意を伺ったという。白は源氏、赤は平家の象徴だったが、蹴合いは白い鶏が勝った。熊野水軍の兵船200余艘に乗った屈強の熊野衆2000余人は、屋島から壇ノ浦へと出陣した。源氏の白い旗が船のへさきにひるがえるのを見た平家の軍兵は、どっと西の海へと逃げた。

 平家が滅亡したあと、行家は甥の義経と手を結び、頼朝追討の宣旨をえて挙兵した。頼朝の大軍が京へとめざした文治元年(1185)11月3日、義経と行家の一行は摂津の大物浦から九州へ船で脱出しようとしたが、突風により船が転覆してしまった。ようやく浜にあがった行家は、義経とともに大物浦から吉野へ抜け、大峰?多武峰?十津川へと逃亡の旅をつづけた。 行家と別れた義経は、延暦寺や興福寺、鞍馬寺などに隠れ住み、最後は北陸加賀方面から奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せたが、行家は翌年5月、和泉国の日向権守清実のもとに潜伏しているところを、鎌倉方の追手に突き止められてしまった。行家は追手の常陸坊昌明とすさまじい格闘を演じたすえ、力つきて捕えられ、和泉の赤井河原で斬られた。姉の丹鶴姫とともに強力な熊野水軍を源氏の味方につけ、平家を壇ノ浦で壊滅させるのに力があった行家は、武家政権を確立した陰の功労者で、公卿たちの論功行賞も「頼朝第一、義仲第二、行家第三」(『玉葉』)と評価されたのに、最期は無惨なものとなった。 髪をおろした丹鶴姫は東仙寺を建て、高齢でその生涯をおえた。東仙寺で読経しながら、丹鶴姫はいったいなんのために弟の行家とともに源氏に肩入れしたのか、という虚しさを噛みしめていたに違いない。
(新宮市観光協会HP参照)


一方で、この丹鶴姫には以下のような伝説も残っています。

丹鶴城主の姫君の丹鶴姫は子供が好きださうで、 夕方、 子供がひとりでそのあたりを通つてゐると、 緋の袴の姿で丘の上へ現れて来て扇で子供をまねく。 招かれた子供は次の日の朝になると死んでゐるといふのである。 その丹鶴姫の使いが黒い兎で、 子供の通る道の前をひよいと横切ることがある。 やつぱりそれを見た子供は死ななけりやならないともいふ。 黒い兎なら暗がりのなかでは見えないかも知れない。自分の見ないつもりのうちに、 もしや黒い兎をみたのぢやないだらうか 私はそんな空想に怯えたこともあつた。 丹鶴姫といふのはどんな人だか知らないが、 城山の向ふの丘には一つの小さな社があつて、 そこを皆が丹鶴姫の祠だと言つてゐる。……
(新宮出身の作家、佐藤春夫の著作「わが生い立ち」より)


物の怪となった丹鶴姫ですが、現在はこんなかわいいゆるキャラとして復活もしています↓


丹鶴姫s
丹鶴商店街のキャラだそうです

こちらのページ参照。



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さて、本丸の南側に張り出したこちらの一角が天守台の跡といいます。ややいびつな形をしています。
この場所からは新宮市街や熊野灘を望むことができます(その①のラスト参照)。



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高く立ち 秋の熊野の 海を見て 誰そ涙すや 城のゆふべに

丹鶴城址にて 與謝野 寛 詠


與謝野寛って誰だ・・・あっ、与謝野鉄幹(与謝野晶子の夫)のことか!
明治39年、大石誠之助、北原白秋らと熊野を漫遊したとき詠んだ歌であるとのことです。



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本丸へ登ってくる2つの道の一つが、この天守台へ直接つながるルート。この道は明らかに後世に付けられたもので、なぜか天守台そのものまで削り取られているようです。いびつな形をしていたのはこのせいか。

この道を使って本丸下へ。



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本丸石垣



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本丸下、郭跡と思われるがなんだかよくわからないところ



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本来の城の施設とは異なるつくり込っぽいですが、この城はかつて観光用のケーブルカーが運営されており、この辺りが軌道の終着点であった模様。本丸周辺の改変部分はそのころの名残が影響しているのでしょうね。
ちなみにこのケーブルカーは長さ88mの「日本一短いケーブルカー」であったんだとか。



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何はともあれ本丸探索終了!

今回引用が多すぎたかも(汗)


その③へ
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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