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五稜郭③ ~箱館戦争の7ヶ月~

引き続き箱館奉行所内から。

その②では建物メインで紹介したので、その③では展示資料の一部を掲載しつつ、五稜郭をめぐる歴史を追っていきましょう。

以下の引用はすべて箱館奉行所公式ウェブサイトより。


18世紀後半、鎖国体制をとっていた日本沿岸に、外国船が近づく事件が頻発するようになります。ロシアの南下政策の影響もあって、蝦夷地での接触が避けられないものとなり、日本とロシアの関係悪化が進みました。そこで幕府は、寛政11(1799)年に松前藩が統治していた東蝦夷地を直轄地にして、幕府が外交上の問題に直接かかわれる体制をつくりました。

享和2(1802)年には蝦夷奉行(同年に箱館奉行と改称)が設置され、その翌年には箱館の港を見おろせる場所(現在の元町公園)に奉行所を建てました。

箱館に根拠地を置いた海商・高田屋嘉兵衛は、クナシリ(国後)・エトロフ(択捉)・ネモロ(根室)などに漁場を開拓して幕府の蝦夷地経営を助ける一方で、良好な日露関係を築くよう尽力しました。しかし幕府は財政難の問題と、対外関係の緊急の問題は去ったという判断から、1821(文政4)年に松前藩を蝦夷地に戻します。ここでいったん、箱館(松前)奉行は役割を終えました。

外国船はその後も蝦夷地の沖に姿をあらわし、天保3(1832)年には椴法華沖、天保5年には矢不来沖(現在の北斗市茂辺地付近)に異国の船があらわれたという記録が残っています。おそらく、この他にも多くの外国船が日本沿岸に近づいた事例がありました。




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安政元年(1854)4月 黒船、箱館に来航


そしてついに、嘉永6(1853)年にアメリカのペリー艦隊が浦賀に来航します。翌年(嘉永7年/安政元年)には日米和親条約が締結され、下田と箱館の開港が決定されました。ペリー艦隊は同年4月に箱館に入港しています。このとき幕府からペリー提督の応接を命じられたのは、松前藩家老・松前勘解由らでした。

幕府はペリーが箱館を去った翌月に、箱館奉行所を34年ぶりに復活し、箱館および周辺5~6里(1里は約4km)四方(現在の函館市・七飯町大沼・木古内町札苅までの一帯)を松前藩から上知して(取り上げて)幕府直轄地としました。さらに、その翌年の安政2(1855)年、松前藩から福山周辺を除く蝦夷地の全領地を上知しています。

再設置された箱館奉行所の任務は、開港にともなう諸外国との応接(外交交渉)、蝦夷地の海岸防備、箱館を中心にした蝦夷地の統治でした。開港場となった箱館には、各国の領事館が置かれ、箱館奉行所は外国との重要な窓口となりました。




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安政6年(1859)6月 国際都市箱館

貿易港として開港した箱館には、外国船が数多く往来するようになり、西洋文化が満ちあふれる国際都市として急速に発展していきました。

箱館の開港当時、奉行所は箱館山のふもとにありました。そこは現在の元町公園がある場所で、奉行所から箱館の港と町を一望できました。しかし、奉行所からの見晴らしの良さは、箱館に入港する外国船からも奉行所が良く見えることを意味します。箱館港に出入りする外国の軍艦からは、格好の標的になる不用心な場所に奉行所は建っていたわけです。また、港から5里四方を外国人遊歩地としたので、箱館山の山頂付近から役所や役宅を背後から見通される恐れが懸念されました。
そこで、箱館奉行所の移転が検討されることになりました。また、箱館港周辺の防衛対策として、港湾を取り囲む台場(砲台)の整備も同時に進められました。

箱館奉行所の移転先に選ばれたのは、箱館の隣村・亀田村にある柳野と呼ばれる緩やかな丘陵地でした。港湾から約3kmほど離れた場所で、これは当時の大砲の射程距離から外れていました。軍事的に優れた立地にありながら、箱館の市中からそれほど遠く離れた場所ではなく、赤川(亀田川)から清流を引き込むことができ、さらに周囲にある泥沼や曲がりくねった道が防衛上の利点になると判断されました。この地に、四方を土塁で巡らせた役所を建てる計画が決まり、箱館奉行支配の諸術調所教授役で蘭学者の武田斐三郎が設計を行うことになりました。




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奉行所の守り 五稜郭の設計の変遷

五稜郭は、設計当初から星形の土塁を計画していたわけではありません。安政2(1855)年に箱館へ入港したフランス軍艦の軍人が、大砲や小銃による戦闘が中心となったヨーロッパで考案された土木技術を伝え、築城術が書かれた書籍を箱館奉行に贈呈しました。武田は設計図や絵図面を写し取って、西洋式築城術を学び五稜郭築造の参考にしました。

箱館奉行所が幕府に提出した文書には、「箱館に入港する外国の軍艦は、どれも大砲が充実している。それに対応するためには、西洋各国で採用されている築城術を参考にして、西洋式土塁の方法で役所を築造したい」と書かれています。

武田は模写した図面に独自の工夫を加えて設計図を完成させ、安政4(1857)年の春から五稜郭の工事が始まりました。途中、予算不足による縮小(半月堡を5か所から1か所に減らす)など、当初の設計や工事計画の変更がありましたが、万延元年(1860)年には土塁・掘割・石垣の工事が完成しました。




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『世界の五稜郭

ヨーロッパには稜堡式の築城法による要塞や城塞都市が数多く残り、主に海岸線や河川の合流地点、国境付近の街道沿いに築かれました。
アジアや南米にも稜堡式の城郭が築かれていますが、これは近世の西欧諸国の植民地政策により築かれたものであるのに対し、日本の稜堡式城郭は西洋文化を積極的に取り込んだ国策による築造であるということが特徴的です。



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箱館奉行所平面図 オレンジ部分が復元された範囲

文久2(1862)年からは、江戸の中川伝蔵(代人:伊兵衛)によって、五稜郭の内部で御役所(奉行所)の建築が始まりました。

五稜郭の築造が始まってから約7年がたった元治元(1864)年に、御役所の建物がほぼ完成となりました。箱館奉行の小出秀実により、箱館山のふもとから五稜郭へと奉行所は移転し、新役所での仕事が始まりました。ここに五稜郭は蝦夷地における政治的中心になりました。




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各藩の蝦夷地警備地図

箱館奉行は、幕府の直轄地となった蝦夷地の警備を、地域を分担して東北諸藩に命じました。

しかしほんの数年後・・・

慶応3(1867)年、15代将軍・徳川慶喜は、将軍職を辞して政権を朝廷に返還し、ついに江戸幕府は崩壊しました。箱館奉行所が五稜郭へ移転してから、わずか4年足らずでの出来事でした。

大政奉還の翌年、最後の箱館奉行となった杉浦誠は、明治政府の総督・清水谷公考と対面し、蝦夷地全域を新政権に引き継ぎ、奉行所と五稜郭を明け渡しました。この数日後、奉行所は箱館裁判所(明治新政府による地方行政機関の名称。現代の裁判所とは異なる。)として開庁し、さらに箱館府と改称されて蝦夷地開拓の役割を果たすことになりました。

この粛々とした引き継ぎから半年後、五稜郭は戦場になります。




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明治元年(1868) 旧幕府脱走軍の箱館進攻

明治元(1868)年8月、旧幕府軍海軍副総裁・榎本武揚は、旧幕府軍主力艦隊8隻を率いて品川沖を脱走します。仙台で新撰組をふくむ旧幕府陸軍と合流し、10月20日に鷲ノ木(現在の森町)から蝦夷地に上陸しました。戊辰戦争最後の戦いとなる箱館戦争の始まりです。

隊を分けて箱館に進軍した旧幕府脱走軍と箱館府軍や松前藩軍は、峠下や川汲峠で交戦し、旧幕府脱走軍が撃破しました。この報告を受けた箱館府知事・清水谷公考は、10月25日に青森へ退却し、翌26日に旧幕府脱走軍は無人の五稜郭を占拠しました。さらに、旧幕府脱走軍は、松前・江差へ進軍し蝦夷地全域を制圧しました。


旧幕府脱走軍は、12月15日に蝦夷地領有宣言を行い、士官以上の入札(選挙)により総裁榎本武揚以下の役職を選出します。



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明治二年(1869)4月9日~ 新政府軍の箱館進攻

翌明治2(1869)年春、新政府軍は反撃を開始します。4月9日、乙部に上陸した新政府軍は、三方から箱館に向かって進軍。圧倒的な戦力差により、4月末には箱館を除く道南各地をほぼ制圧しました。




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土方歳三の最後

5月11日、新政府軍は箱館総攻撃をおこないます。四稜郭が陥落し、箱館市街は新政府軍が制圧しました。元新撰組副長・土方歳三が戦死、箱館港では旧幕府脱走軍の艦隊が全滅しました。五稜郭からは、土塁の上に配置したカノン砲を七重浜方面に向けて援護射撃しましたが、射程距離は短く港まで砲弾は届きませんでした。




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箱館総攻撃

5月12日、箱館港に碇泊した新政府軍の軍艦「甲鉄」は、五稜郭に向かって艦砲射撃をおこなっています。甲鉄の大砲は射程距離が4km以上あり、港から約3kmの位置にあった五稜郭にも充分に砲弾が届く強力なものでした。砲弾は役所の太鼓櫓に命中し、数人の死傷者が出ました。箱館奉行所は、外国船からの艦砲射撃を避けて五稜郭に移転したはずですが、五稜郭築造からおよそ10年で、大砲の性能は格段に進化していたわけです。

15日には弁天岬台場が降伏、16日には中島三郎助父子の戦死により千代ヶ岡陣屋が陥落。そして18日、ついに五稜郭が降伏し、7か月におよんだ箱館戦争が終結しました。




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おや、これはいったい何でしょう?
箱館にゆかりのある歴史上の人物がコマのようになっています。

試しに中央の枠にコマを置いてみますと・・・



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おお、人物列伝が表示されますよ。

ご存知土方歳三です。



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旧幕府脱走軍 総裁 榎本武揚



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平和の使徒 新島襄

このほか武田斐三郎成章やジュール・ブリュネなどなど。



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五稜郭・箱館奉行所に関するタッチパネル式クイズがあります

これは簡単。



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城館マニア的にはこれも知っておきたい



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これはちょいムズ



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箱館奉行に任命されてしまった

なかなかレベルが高いクイズだと感じました。



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木組模型

これを復元するのは大変だったでしょうね。


奉行所退出。その気になればいくらでも長居できるところでした。



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奉行所の向かいにある珍しい円柱タイプの説明柱

背面には解説がみっちり。



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同上


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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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