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一本木台場 ~我この柵にありて 退くものを斬る~

土方歳三らの霊が祀られている碧血碑の訪問の次は、土方歳三最後の地として知られる一本木関門へ。
「最後の地碑」は若松町の若松緑地にあります。



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若松緑地公園

八幡通りを函館山方面から進むと、左側に写真のような掲示があります(ただし公園の駐車場はなし)。
緑地内のわずかな凹凸も遺構ではないかと考えてしまうのが中世城館病患者の典型的症状ですが、どうやら関係ないようです。

『説夢録』によると「一本木関門の辺海岸に砲台を築き」という記述があり、この場所の海側に旧幕府軍が設置したであろう台場がありました。現在の国道5号線付近と思われます。



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緑地内にある猿田彦塚の碑

昔、この辺りは一本木と呼ばれ、箱館村と亀田村との境になっていた。
猿田彦塚は、文化14年(1817)、一本木付近に建立され、「天保九年御巡見要用録」という記録書には、箱館村と亀田村との境界標であったと記されている。
この塚は以前、旧若松小学校西側の鶴若稲荷神社の境内にあったが、鶴若稲荷は昭和20年に疎開のため移転し、取り壊された跡には家屋が建ち、塚は無くなり見つからなかった。
しばらくして、昭和31年に付近の民家の庭から字を刻んだ猿田彦塚の破片の一部が発見された。
ここに在る2つの碑は、発見した石の破片を使用して昭和33年に猿田彦塚を復元したものである。
塚の表面には「猿田彦大神、鈿女命、右箱左亀」また、側面には建立年と、向かって左の小碑に一部復元してある文字が刻まれていた。
猿田彦と天鈿女命(あめのうずめのみこと)とは夫婦であり、猿田彦は道案内の神として知られている。 (説明板参照)




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公園内の一角にある石碑と説明板、復元された一本木関門

土方歳三最期の地

新撰組副長として京都の街に勇名をはせた土方歳三は鳥羽伏見の戦いの後新撰組を率いて各地を転戦して北上し、仙台で旧幕府海軍副総裁榎本武揚が指揮する脱走艦隊と合流した。
明治元年(1868)10月、蝦夷地(北海道)に上陸した榎本軍は、箱館を占拠して新政権を樹立、土方はその陸軍奉行並の要職についた。
翌2年4月、新政府軍の総攻撃に榎本軍は各地で敗退したが、土方が守った二股口(現・北斗市)だけは最後まで落ちなかった。
しかし、同年5月11日、ついに箱館も政府軍の手に落ちた。土方は箱館奪回を目指し、50名の兵を率いて一本木(現・若松町)の関門を出て箱館の市中に向い、敢然と切り込んでいったが銃弾に当たって倒れ波乱に満ちた生涯を閉じた。時に35歳であった。 (説明板参照)


箱館市街を制圧した新政府軍が一本木関門方面に進出するのに対して、土方歳三は孤立した弁天台場の救出に向かうが、一本木関門付近で指揮中に狙撃され戦死します。この戦いで土方は「この機失するべからず 吾れこの柵に在りて、退く者は斬らん」 と自軍を鼓舞したと伝わっています。



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土方歳三最後の地碑

きれいな花と線香が添えられています。この花と線香はいつ行っても絶えることがないそうです。
洋装軍服の写真、現代から見てもカッコいいと思いますものね。



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所在:北海道函館市若松町
評価:

本文中にもある通り一本木台場の場所は一本木関門付近の海岸に築かれていましたが、「土方歳三最後の地碑」も以前は別の場所にあり、数度の移転で現在地に設置されたもののようです。とすると、一本木関門の位置もここから多少外れる可能性もあります。いずれにせよ、ここは台場目的ではなく土方歳三メインで訪れるところでしょう。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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