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館城 ~松前藩最後の城~

本日最後の目的地である館城へ。場所は道路地図にも記載されているので特に迷うこともありません。
江差から厚沢部町へ入り、内陸へ向かいひた走る。
距離はあったものの、信号も通行する車もない区間がほとんどで、驚くほど早く目的地に到着。



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r634から館城のある城丘へ。
登り口には「館城址 館藩」と書かれた城門風のゲートや幟旗があります。



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城域内に到着。というか、この地点がすでに城域の中心部分で、現在は道路が貫通しています。
左手丸で囲った部分には天守風模型、いわゆる「あやしい城」があります。普段であればこういったあやしい城などは大好物なのでじっくり写真を撮るところですが、現時刻は18:30、おまけにデジカメ電池残量も切れかかっている状態。周囲の探索のほうを優先します。



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資料館を建設することができなかったのか、代わりに掲示板のようなこのミニ資料館がありますが、かなり情報量は充実しています。手前のポストにはパンフレットあり。

蝦夷地を支配する松前藩は松前城を本拠としていたが、明治元年7月に起こった正義隊のクーデターにより尊王派に転じた後、旧幕府軍の攻撃に備えて、内陸部に新城を建設することとし、9月1日、箱館府に築城を願い出るとともに、工事に着手した。
松前城は艦砲射撃を受けるおそれがあること、従来の漁業・交易経済からの転換を図るため厚沢部川流域開墾の拠点とすること、が館城築城の目的であった。
工事を突貫で進めた結果、10月末には一応の完成を見た。(wiki参照)


松前城は確かに海岸線から近いものの、海からの攻撃に対抗する縄張りに改修されていたので(こちら参照)、徹底抗戦するつもりなら松前城でするべきだったと思うんですけどねえ。現に上層部の抜けた残存兵力のみで戦った松前城は、海からの攻撃ではなく背後からの攻撃で陥落していますし。
このような内陸部にまで退避しているというのは、それだけ開陽丸をはじめとした旧幕府軍の海軍力を恐れていたということでしょうか。



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国指定史跡松前氏城跡 館城

ここが本丸跡で、礎石や井戸跡があります。
本丸奥は一段低い郭になっており、賄部屋跡と米倉跡があります。

まつりがあるようで、その飾りつけが始まっています。



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城址碑 

明治維新の事変に際し、松前藩主18世徳広は、福山城松前城)の海面に対する防備が不備であると心配し、新城を築き移ることとした。新城(館城)は城丘の丘陵地にあり、南方は深山を蔽い、濁川、糠野川を三方にめぐらし要害に最も適した所であった。
1万坪の敷地面積に柵を設け、南に表門、北に裏門、32間×12間の本丸や10間×8間の大広間・武士部屋・米倉等を建て、合戦の際には濁川・糠野川の水を堰きとめ、外堀に水を湛える計画であった。
明治元年(1868)10月26日、五稜郭を占領した徳川脱走軍が福山城に迫ると、藩主徳広は福山城から遁れ、夫人及び男子3児、その他藩士300人を従え工事中のこの館城に移った。11月5日福山城を占領した徳川勢は、11月15日館城を攻撃し、松前軍は奮戦するも16日落城した。藩主徳広はその内室子息と共に近臣に護られ熊石に逃れた。
館城は着工後わずか75日で陥落した城で、松前藩最後の城である。 (現地説明板参照)




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城の全景はこんな感じのようですが、いまいち縄張りというものがつかめません。


↓は航空写真ですが、

空から見た館城跡 
館城
赤い線が史跡指定範囲、黒い線が確認された外郭線(厚沢部町HP参照)

地形図を見ると、確かに前述の説明の通り三方を川に囲まれ、残る一方は深い山に連なる丘陵の上に立地しており、要害地形なのは間違いありませんが、この川のところで敵を食い止めるようにしないといけません。
上の写真の外郭線では、いくらなんでも守り切れるわけがありません。



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井戸

現在は3箇所の井戸が残されており、明治20年にこの地を訪れた開拓者の二木小児郎は、十数基の井戸跡があることを自伝『福寿草』の中で述べています。



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三上超順力試之石

箱館戦争が始まると、旧幕府軍の松前城攻撃に先立ち、松前藩主一族は11月3日館城に移動。11月5日の松前城陥落後も松前藩は降伏せず、館城・江差を拠点に態勢を立て直す姿勢を見せたため、11月10日、松岡四郎次郎が率いる一聯隊200名が館城攻略のため、五稜郭を出発。11月13日に途中の稲倉石(現・厚沢部町)を抜き、11月15日、館城攻略戦が行われた。 藩主一族は11月12日に江差に避難しており館城守備隊は60名程度だけであった。午前9時頃攻撃が開始され、1時間ほど激しい銃撃戦が続いた後、表門の下の隙間から侵入した旧幕府兵が門を開け、兵が乱入し白兵戦となった。まな板を盾にしつつ太刀で戦い壮絶な戦死を遂げた松前法華寺の元僧侶である軍事方・三上超順の奮戦もあったが、昼頃には落城・焼失し、松前兵は敗走した。(wiki参照)




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三上超順の奮戦(ミニ資料館展示資料より)

松前兵全滅の危機に際して正義隊隊長を務めていた三上は右手に大刀、左手に盾代わりのまな板を携えて、味方を逃がすため単身旧幕府軍の前に立ちはだかり、旧幕府軍指揮官・伊奈誠一郎を殺傷するも、横田豊三郎、堀覚之助、黒沢正介らによって斬殺されます。享年34。敵方からもその豪傑ぶりを「無双の勇僧」と讃えられた三上の遺体は、旧幕府軍により手厚く葬られました。



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本丸から道を挟んで南側には百間堀、さらに南には展望台となっている高台があり、その途中にはいくつかの窪み(案内図によると「胸壁 散兵壕跡」)があります。


日没と電池切れにより、本日の探索はこれにて終了。



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所在:北海道檜山郡厚沢部町城丘
評価:★★

随所に土塁や堀跡が点在していますが、いまいち散漫な感じを受け、縄張りがつかみにくいところです。短期間の突貫工事で完成させたということですが、限られた人員での短期間の工事では藩主や近習が住む建物を完成させるくらいがやっとで、大規模な普請など到底できなかったのではないかと想像されます。これなら松前城で交戦したほうがよっぽど粘れたと思うのですが、藩士はともかく、上層部は全面抗戦するというよりも奥地に隠れてやりすごそうという考えだったんですかね。藩主はすぐ脱出しちゃうし。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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