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松前城③ ~最北の日本式城郭~

福山城松前城)は、松前町福山の台地に築かれた平山城で、近世に築城された北海道唯一の城郭である。松前家5世慶広が、天正17年(1589)徳山(大館)の居館焼失を機に、慶長5年(1600)福山の地で築城に着手し、同11年(1606)完成した。
蝦夷地の中心として威容を誇ったこの城は、嘉永3年(1850)幕府の命により取り壊され、高崎藩士市川一学の縄張により、直ちに全面的な改築に着手し、安政元年(1854)完成をみた。その後10数年を経ずして、明治維新後の戦乱により廃墟と化し、さらに明治8年(1875)には、天守(三重櫓)・本丸御門・同東塀等を残して取り壊された。昭和16年これら3棟は、国宝に指定されたが、同24年本丸御門を残して他の建物は焼失し指定を解除された。同25年文化財保護法の施行により、本丸御門は重要文化財に指定された。
(現地説明板参照)



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御番所跡からの三重天守と本丸御門



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天守三重櫓

屋根には寒さで凍み割れやすい粘土瓦のかわりに銅板を葺いています。
石垣は亀甲積と呼ばれる六角形に加工した石を隙間なく積む手法が見られ、天守下の石垣には、戊辰戦争時に土方歳三らの旧幕府軍に攻められ落城した際の砲弾・銃痕跡が残ります。



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明治40年代の本丸御門と三層天守

天守は戊辰戦争の攻防戦や明治の廃城令、太平洋戦争も潜り抜け旧国宝として存続していましたが、昭和24年6月5日に城跡にあった松前町役場からの出火が飛び火して焼失しました。

5日午前1時10分頃に松前町役場当直室から発火したとされ、当時の毎日新聞によると出火原因は宿直の町職員が電灯に毛布をかぶせてコタツ代わりにしたのが過熱したものとみられるという。損害は松前城だけで当時のお金で2000万円と推定されている。(wiki参照)


・・・この職員はどう責任を取ったのでしょうか。



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本丸側からだと屋根の色も異なって見えます



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福山城本丸表御殿玄関(北海道指定有形文化財)

松前城に残る3つの現存建築物(本丸御門、本丸表御殿玄関、旧寺町御門)の一つ。

慶長11年(1606)に完成した城は、当時これを福山館と称していた。しかし、寛永14年(1637)城中より出火し、多くの建物を焼失、同16年これを修築した。その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。
明治8年、北海道開拓使の命令により福山城は取り壊されたが、天守と本丸御門、表御殿は残った。表御殿は松城小学校として充用され、明治33年新校舎が完成した後も、この玄関だけは小学校正面玄関として昭和57年まで利用されてきた。
(現地説明板参照)



一通り見学して有料区間から退出。
それ以外のところもさらっと見ていきます。



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多門櫓跡

「松前福山城図」を見ると三重櫓の東に「御多門」の表記があります。
現在の入城口(チケット売り場)付近がその跡地であるようです。



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搦手二ノ門(復元)



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外堀でしょうか

図面に描かれているので正確な復元と思われますが、幅はそれほどなく、一般的な近世城郭の堀としては小規模なものです。



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ジオラマ

海に向かって雛壇状に構築されています。
海岸線が近いので外堀を大規模に築く必要はなかったのでしょう。



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三の丸には7基の台場を設け、完全に海岸側を志向した縄張りとなっています。
海側からの攻撃には無類の防御力を誇ったことでしょう。海岸に上陸することすら困難だったかもしれません。
さすが長沼流兵学者・市川一学の縄張り。こんなところに高崎藩士が関わっていたとは知りませんでした。

・・・が、幕末期に大改修して当時の最先端の防御システムを取り入れたこの城は、戊辰戦争時に旧幕府軍の攻撃により落城しています。

幕末の築城にも関わらず、松前城は激しい攻防戦を体験している。1868年(明治元年)秋、蝦夷地に独立政権樹立を目指す旧幕府の榎本武揚を首領とする軍勢は、官軍の拠点である五稜郭を制圧した後、11月5日には元新選組の土方歳三が700名ほどを率いて松前城を攻撃した。松前藩兵は防戦に努めたものの、わずか数時間で落城した。これは、旧幕府軍軍艦の艦砲射撃もさることながら、城の構えがあまりに脆いものであったためである。
長沼流の軍学者であった市川は、大手門からの通路は曲がりくねって鉄砲の的になりやすい効果的な構えとしたが、搦手方は敵は攻めてこないものとして、直線に通路が続き鉄砲狭間も少ない防御力の低い配備としていたのである。
これを土方に衝かれた形となってしまった。現在も石垣にこのときの弾痕がいくつも残っている。


もともとロシア艦隊の来航に備え海側にのみ重点を置いた縄張りであったため、背後があまりにもお留守であったようです。
築城時の周辺情勢を考えると、限られた予算でそこまで手を回せというのは酷なことではあります。



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天神坂門(復元)



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天神坂                               松前桜三大名木の一つ「天神坂夫婦桜」(左の葉桜)
                                   


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三ノ丸からの眺め

中央手前のジオラマがある付近が番所跡。
その先の松がある土居は蔀土塁の役割があったのかもしれません。



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二ノ丸・三ノ丸は東側を中心に順次復元整備されています。



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この鋭角に切り立った塁線など、稜堡式城郭の特徴も取り入れているように感じます。



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城址碑!



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縄張図は是非チェックしておきましょう。



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馬坂

江戸時代に松前藩士が登城する際に通ったとされる坂。
松前家五世藩主慶広の四男・由広が大坂冬の陣が起きる直前、慶広の意に反して豊臣方につこうとしたため、家臣に襲われ斬り殺された場所とも伝えられています。

橋が架かる川は大松前川。天然の外堀をなしています。



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所在:北海道松前郡松前町松城
評価:★★★★

さくらまつりの期間中ということもあり、賑わいのある城という印象でした。シーズンオフや冬場にはまた違った表情を見せるのでしょうね。縄張り面も面白く、意外と奥が深い城とも感じます。より登城の雰囲気を味わうには、南側から登城するのがいいかもしれません。北側から進むと、桜や寺社を見ることができるのはいいのですが、縄張り的には目立ったものはなく、土方歳三のようにあっさりと天守前まで到達してしまいますので(笑)
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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