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志苔館② ~コシャマインの戦いで落城~

本郭内へ進みます。
内部はかなり広く、周囲を土塁で囲まれています。



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柵跡の遺構の平面表示

奥に見える石碑は館主小林氏の頌徳碑。



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郭内遺構
郭内には、主に14世紀末から15世紀にかけて存在していたと考えられる建物、柵、塀、井戸などの遺構が発見されている。建物跡は7棟分発見されているが、柱と柱の間の寸法の違いから大き<三つの時代に分類することができる。
建築時期からみて、14世紀末から15世紀初頭頃と推定される柱間寸法7尺(約2.12m)以上のものと、15世紀中頃と推定される柱間寸法6.5尺(約1.97m)のものが掘立柱の建物である。16世紀以降と推定される柱間寸法6尺(約1.82m)のものは礎石を使用していることが明らかとなっている。
また建物跡の周囲には、囲いや敷地割を目的とした珊と塀の跡が発見されている。当初は珊が設置され、後に塀へ変わって行ったものと考えられる。

出土遺物
発掘調査による出土遺物には、陶磁器類、金属製品、石製品、木製品等の遺物がある。陶磁器類は、舶載陶磁器(中国製陶磁器)と国産陶器に区分され、個数にして76点出土している。舶載陶磁器は、青磁、白磁、鉄釉(てつゆ)、国産陶器は瀬戸、越前、珠洲(すず)、かわらけ等のものがある。金属製品は、古銭22点、胴製品18点、鉄製品279点が出土している。石製品は、硯・砥石が8点、木製品は、井戸枠、箸、曲者、桶の一部等が出土している。
(説明板参照)




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建物跡・井戸跡の表示

発掘調査により、地表下約4mのところから木製の井戸枠が発見されている。郭内に存在した唯一の井戸である。この木製井戸枠は四隅に置いた柱を桟でつなぎ、柱と柱の間に縦板を並べた「方形隅柱横桟式」と呼ばれるものである。
この井戸は形式的に見て、おおよそ室町時代頃に造られたものと考えられる。井戸の中からは、箸・曲物・桶の一部・銅銭等が発見されている。ここには、発見された井戸枠と同じ構造のものを地表に復原して表示している。
(説明板参照)




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土塁の切れ目から外へ・・・



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眼下にはちょっとした漁港が望めます。

眼前に広がる海は津軽海峡。



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南側の切岸から西側土塁へと続く塁線

美しい・・・



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東側土塁

自然地形も利用した高い切岸となっています。



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北側の土塁と堀



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・・・


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・・・


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・・・

美しい・・・



動画


風が吹いていたな・・・



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この美しい館も、長禄元年(1457)、和人の蝦夷地への進出に反発したアイヌにより攻められ、時の志苔館の館主・小林良景(築城主小林重弘の孫)は奮闘及ばず討死、志苔館は陥落します。
その後、良景の子小林良定が志苔館を奪い返すも、永正9年(1512)アイヌの攻撃で再び落城し、良定は討死。その子の小林良治はコシャマインの乱を平定した武田信広を祖とする松前氏に従属したため、志苔館は廃館となりました。

コシャマインの戦い

応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起。現在の北海道函館市にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬、コサマイヌとも呼ばれる)を中心とするアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが最終的には平定され、松前藩形成の元となった。
当時、和人は既に渡島半島から道南に進出しており(渡党、道南十二館などを参照)、製鉄技術を持たなかったアイヌと鉄製品などを交易していた。アイヌの男性が志濃里の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を刺殺したのがこの戦いのきっかけである。
1456年(康正2年)に発生したこの殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に和人に向け戦端を開いた。胆振の鵡川から後志の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館(志苔館)を攻め落とした。アイヌ軍は更に進撃を続け、和人の拠点である道南十二館の内10までを落としたものの、1458年(長禄2年)に武田信広によってコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。
この事件の前年まで道南に滞在していた安東政季の動向などから、事件の背景に当時の北奥羽における南部氏と安東氏の抗争を見る入間田宣夫の見解や、武田信広と下国家政による蝦夷地統一の過程を復元しようとする小林真人の説がある。
アイヌ対和人の抗争はこの後も1世紀にわたって続いたが、最終的には武田信広を中心にした和人側が支配権を得た。しかし信広の子孫により松前藩が成った後もアイヌの大規模な蜂起は起こっている(シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦い)。
なお、1994年(平成6年)より毎年7月上旬、北海道上ノ国町の夷王山で、アイヌ・和人の有志による慰霊祭が行われている。
(wiki参照)




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館の下には、和人・阿伊努(アイヌ)双方の御霊を祀った慰霊碑が設置されています。

下北半島津軽方面に於いて南北朝の戦いに敗れたる南朝方の武士達 道南に館を築きてありしが、康生2年(1456)志苔館付近にて阿伊努(アイヌ)の蜂起あり、翌長禄元年 館は攻め落され、その後再び永正9年(1512)戦いあり、館は陥落し廃館となった。
ここにコシャマインの戦いにおいて亡くなりし館主和人御霊 阿伊努御霊 双方を同一座にお祭りしたものであります。 (説明板参照)




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所在:北海道函館市志海苔町
評価:★★★☆

整備状況は◎。さすが国指定史跡、期待通りの素晴らしい土塁です。土の城好きの方には特におすすめできます。眺めも雰囲気も良いところで、海に沈む夕日などは格別のものがありました。津軽海峡を一望できるこの地に立つと、海上交易を意識してこの地に館を築いたのであろうことを実感できます。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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