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昭和新山

館山チャシからは次の目的地のカムイチャシへ向かう予定でしたが、館山公園から見えた昭和新山の姿が気にかかり、ここまで近くに来たんだからということで急遽予定を変更し寄り道することにしました。



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館山公園から昭和新山の駐車場へはすぐ到着。
車を止めるや否や、駐車場係のじいさんが近寄ってきて即行で駐車料金をむしられた。
選択の余地なく駐車料金盗られるとテンション下がります。



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先に施設の方を見ていきましょうか。
土産屋さんやらレストランやらが立ち並んでいますが、駐車料金盗られているのでもう入る気なし。



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情報館発見。入場無料とあらば入るよりほかなし。

ところで、ここ洞爺湖有珠山は国内第1号の世界ジオパークに認定されています。
日本には現在世界ジオパークに認定されているところが8ヶ所ありますが、私はこれまでに糸魚川・山陰海岸・島原半島・阿蘇の4ヶ所を探訪済み。ここで5ヶ所目となります。



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噴火体験室 Let's get in! It's FREE!

キラウエア火山、雲仙普賢岳、三原山、有珠山、昭和新山の噴火映像などなど。



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再び Let's get in! It's FREE!



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20世紀だけでも4回の噴火を起こした有珠山地域。まさに生きた火山地帯。

噴火は確かに恐ろしいものです。しかしそれによりもたらされた変化に富んだ美しい景観と豊かな自然、人々の暮らしと観光地。このジオパークのテーマは『変動する大地との共生』です。



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今から約11万年前、巨大な噴火によってカルデラ湖である洞爺湖が、そして、約2万年前から洞爺湖の南で噴火が繰り返されて有珠山が誕生しました。成層火山であった有珠山は、7-8千年前に山体崩壊し流れ山地形を形成した後、江戸時代まで活動を休止していましたが、1663年に活動を再開、その後2000年までに9回、数十年ごとに激しい変動を見せる噴火を繰り返し、その度に昭和新山などの新たな溶岩ドームや潜在ドームを形成してきました。


無料の情報館が充実していてなかなか良かった。駐車料金分の価値はあったかも。
続いて外へ。



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有珠山へ上るロープウェイの発着駅もあります。



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昭和新山方面へ。

昭和新山周辺は特別保護地区に指定されています。支笏洞爺湖国立公園の中でもあらゆる行為がもっとも厳しく規制されている地区であり、公園の核心となる地域です。また、山そのものも特別天然記念物です。



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あの岩肌の近くにまで立ち寄れるのかなと思っていましたが、手前のところで立ち入り禁止となっていました。
よく見ると岩肌から噴煙のようなものが漏れています。
ちょっとくらい登れるものかと思っていましたが、全くそんな状況ではありません。



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普通の林の中の散策路のようですが、こちらは野外博物館。
植物遷移がわかる自然の博物館となっています。

噴火時の昭和新山周辺は火山灰や溶岩に覆われた裸地でした。
この不毛の地も10数年を経て草木が広がり、緑が広がっていきます。
その後、草木や小低木の群落によって安定された土壌に広葉樹が広がります。
現在のこの林一帯はこの段階に差し掛かっています。
この後さらに時間を経て、うっそうとした安定した森林(極相林)に成長するのです。



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野外博物館を抜けて下へ降りてきたところ、銅像を発見。
この人物は三松正夫。地元の郵便局長にして、アマチュアの火山学者。

北海道伊達町(現・伊達市)に生まれる。北海中学を中退後、有珠郡壮瞥町の壮瞥郵便局に勤め、郵便局長になる。
1910年(明治43年)の有珠山噴火により、8月1日以降山麓に側火山となる明治新山(明治43年に隆起したことから四十三山と命名された)が誕生する。群発地震が多発し、住民に避難が指示されたが、当時は壮瞥郵便局の局長代理を務めていた三松には通信確保のため退避の許可が下りず、地面に畳を敷いて徹夜で勤務していた。当時、凶兆などと騒がれていたハレー彗星が地球に接近していたが、彼は空に尾を引く彗星を眺め「やはりこの彗星は不吉なのだ」と思ったという。11月上旬、現地調査に訪れた火山学者・大森房吉、今村明恒、田中館秀三らの案内役を務め火山学への造詣を深めた。
1917年(大正6年)6月、杉山春己、安西岩吉、そして壮瞥郵便局長であった三松の3人が鉱山見学の帰り、西丸山山麓の洞爺湖畔で熱い湯が沸く現場を発見する。地面を掘り下げて湯を溜め、温度を測ったところ43度を記録。温泉として立派に成り立つことを確認し、道庁に発見者3人の名義で温泉利用の出願を提出する。同年秋には、温泉旅館「竜湖館」が建設された。 これが、現在に続く温泉の開基である。
1943年(昭和18年)12月末の有感地震を契機に、有珠山麓の麦畑から突如として溶岩ドーム(昭和新山)が隆起し始めた。翌年初頭から翌々年まで続いたこの山が産まれるプロセスを、三松は私的に定点観測を続ける。その手法は地震の回数を皿に置いた豆で記録、台に顎を乗せ視点を固定し、水平に張った糸で日々の形状の変化を計測するという独創的なハンドトレスの手法で作成された。この図はのちに「ミマツダイヤグラム」と命名され、世界でも貴重な火山活動の記録となった。
その後、荒廃から守るために1946年(昭和21年)に私財を投じて土地ごと購入し天然記念物への申請などの保護に努めた。土地ごと買い取りの理由を本人は著書で「硫黄が採取できるということでの採掘を阻止するため」と記したほか、娘婿で「三松正夫記念館」館長三松三朗の著書では「新山への愛着で所有したかったから」とされている。別の記事では「三松はこの世界的に貴重な火山の保護と家や農場を失った住民の生活の支援のために、山になってしまった土地を買い取った」とされている。ともあれ、昭和新山は現在、三松家の私有地であり、ニュージーランドのホワイト島等と同じく世界でも珍しい”私有地にある火山”となっている。1951年(昭和26年)国の「天然記念物」に指定され、1957年(昭和32年)には「特別天然記念物」に指定された。
1948年(昭和23年)に昭和新山の成長過程を記録したスケッチを元に作成した「新山隆起図」がオスロで開かれた万国火山会議において専門家から高く評価され、「ミマツダイヤグラム」と名付けられた。1949年(昭和24年)「第1回 北海道文化賞」受賞。
1977年(昭和52年)生涯3度目となる有珠山噴火を目の当たりにしながら89年の生涯を終える。
1988年(昭和63年)4月、昭和新山の山麓に「三松正夫記念館」(昭和新山資料館)が開館して三松による観測記録「ミマツダイヤグラム」を含む資料類が展示されているほか、1993年(平成5年)12月に噴火50周年を記念して銅像が建てられた。
(wiki参照)




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現在も昭和新山を観測し続けています。



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なんだかんだで見ごたえありました。

最後にアップにてお別れです。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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