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ノツカマフ1号チャシ ~根室半島チャシ跡群⑤~

続いて1号チャシへ。

真新しい立派な説明板があります。



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ノツカマップの歴史

この地はノツカマップといい、アイヌ語で「岬の上にあるところ」という意味です。1754年には松前藩の役人やこの地を経営する和人が住むようになりました。1778年にはロシア商人シャバーリンやオチェレデンがノツカマップを訪れ、交易を申し出ました。
1789年にはこの地域を治めていた和人が、アイヌ民族に対し過酷な労働や暴力的な支配を行ったことが原因で、クナシリやメナシ(羅臼・標津)地方のアイヌ民族が和人71人を殺害する「クナシリ・メナシの戦い」がおきます。
松前藩は鎮圧隊を派遣し、戦いに関わったアイヌ民族37人をこの地(ノツカマップ)に集め、処刑しました。それまでノツカマップはこの地方の中心地でしたが、この事件をきっかけに現在の根室湾周辺に中心が移りました。


1789年のラクスマン来航に先立ち、非公式訪問ながら根室とロシアの関わりは始まっていました。



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チャシ分布図

ここで名称が表記されているチャシは、それ以外のところと比べればまだしも巡りやすいところのようです。



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周辺地形図

1号チャシは半円形の壕が2つ連結して構成されています。
2号チャシにはない土橋や盛土も備わっています。



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夷酋列像 クナシリ総首長ツキノエとノツカマップ総首長ションコ

クナシリ・メナシの戦いではこれら長老が間に入り全面衝突は回避された。

■蜂起の原因
この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧隊260人をノッカマップに派遣し、なぜ蜂起が起きたのか取り調べることになりました。取り調べの結果、飛騨屋の支配人、番人らの非道(暴力・脅迫・性的暴力・だまし・ツグナイ要求)の実態が明らかになりました。これらは、飛騨屋がアイヌを強制的に働かせるために行われました。また、アイヌの人々は非常に安い賃金(品物)で、自分たちが冬に食べる食糧を確保する暇もないほど働かされ、餓死するものが出る状態でした。次第にアイヌたちは「このままでは生きていけない」と意識するようになり、飛騨屋の番人らが「アイヌを根絶やしにして、和人を連れて来る」という脅しが、現実味を帯びてきました。さらに、女性に対する性的暴力が続出し、それに対する抗議をしても認めるどころか、さらにひどい暴力を受けるという始末でした。

■直接の原因
このようにクナシリ・メナシ地方のアイヌたちは、過酷で強制的に働かされ続け、いつ何が起こっても不思議でない状況となっていました。
1789(寛政元)年になって、クナシリ島の惣長人(そうおとな=総首長)サンキチが病気になり、メナシ領ウェンベツの支配人勘兵衛がクナシリ島にきて持ってきた酒をサンキチが呑んだところ、そのまま死んでしまいました。また、同じくクナシリの長人(おとな=首長)マメキリの妻が和人からもらった飯を食べたところ、まもなく死んでしまいました。このような不審な死に方をしたサンキチやマメキリの妻は、普段から毒殺するといって脅かし続けた和人によって、本当に毒殺されたに違いないということになったのです。本当に毒殺であったかどうかは、今となっては真相は分かりませんが、たとえ偶然であったとしても、蜂起に至るのは時間の問題であったのです。


■ノカマップでの取リ調べ
アイヌに対する取り調べは、アッケシの首長イコトイ、ノッカマップの首長ションコ、クナシリの首長ツキノエに行わせました。その結果、クナシリでは41人が、メナシでは89人が、合わせて130人が蜂起し、殺害に加わったことが判明しました。さらに、なぜ蜂起したかについても詳細に取り調べられました。
この内、直接の加害者である37人が牢に入れられました。さらに彼らが持っていた弓などの武器が全て没収されました。

■37人の処刑
7月20日に取り調べが行われ、その日に直ちに37人に対して、重罪であるという理由で死罪が決定しました。
翌21日、本人たちに死罪が申し渡され、指導者であったマメキリから順番に牢から引きだし、首をはねていきました。次々と首をはね、5人目が終わり、6人目の時、牢内が騒がしくなり、大勢がペウタンケと呼ばれる呪いの叫びをあげ、牢を壊そうとしたので、鎮圧軍は牢に鉄砲を撃ち込み、逃げる者は槍で突き刺し、大半を殺した後、牢を引き倒し37人全てを処刑しました。その後、処刑した者全員の首をはね、洗って箱に塩詰めにし、胴体は一つずつむしろで包んで大きな穴を掘って埋めたのでした。

(引用はともに根室市HPより)

松前藩に加担したともとれるツキノエの行動は、アイヌ同族からすれば裏切り行為に見えたかもしれません。
しかし武装した松前藩兵との戦力差は歴然であり、全面衝突していればアイヌ側は殲滅されていたかもしれません。というか、その公算は高かったと思われます。

等分の理の法(前近代の日本の法理)に則れば和人71人の死者に対しアイヌ側も同数の処刑ということになるし、そもそも桓武以来1000年の騙し討ちの伝統芸(アテルイしかり、シャクシャインしかり)をもつ和人側がそれで済ませるかも不透明なところであったが、最終的に37人の処刑で済んだのは、ツキノエの交渉による尽力もあったものと思われます。



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野塚フマさんこんにちは。



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HYOUTYUU



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幅は約5m、深さは2~3m。



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土橋部分



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チャシ中央部から



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ノツカマップ湾



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連結している東側のチャシから。向こうに西側のチャシ。
二つ連続していますが、間の堀は結構深いです。



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根室発祥の地にして日露交渉発祥の地。
そしてアイヌの最後の大規模蜂起があった地・ノツカマップ。

遺構そのものもほかのチャシよりは明確ですが、それよりも歴史性を肌で感じたいところです。



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所在:北海道根室市牧の内
評価:★★☆

表示物は充実し、見学路も整備されているため、どこか一か所でもチャシを見ておきたいという人にはおすすめの場所。時代背景が異なりすぎているため現代の価値観で単純に批判することはできませんが、この地でこういった事件が起きていたということだけは知識として多くの人に知っておいてもらいたいものです。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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