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中津城① ~官兵衛が築いた三大水城~

9月29日、晴れ。九州遠征最終日。
最後まで真夏日です。
そしてこの翌週から一転して涼しい気候になるという。例年のことですが。


本日1城目は黒田官兵衛が築いた中津城
日本三大水城(高松城今治城中津城)の一つ。



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鳥居をくぐって城内へ。無料駐車所が完備されています。
暑いので日陰場所を探して駐車するのが最優先事項。
いい場所があったのでキープ。天守から一番遠いところなので安心して独り占めできます。



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駐車場南側の堀と石垣。
黒田時代の典型的な穴太積みの石垣。
角は算木積みとなっています。



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同じく本丸南側の黒田時代石垣。
反りはなく、未加工の自然石を組み合わせた崩れにくい石垣。
(資料「黒田の石垣の見どころ」より)



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あっネコちゃんだ! まって~

・・・追いかけた先にも黒田の石垣。見てみましょう。



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本丸西側、中津川沿い。

説明板によるとこちら側の石垣には古代山城の石が使われているといいます。



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説明板より。

赤い部分には古代山城である唐原山城(国指定史跡:旧唐原神籠石)から持ち出した石を用いています。黒田時代の石垣は通常未加工の自然石を用いますが、古代山城の石は古代に既に加工されています。対して青線部分は黒田氏の後の細川氏時代のものとされるが、未加工の自然石となっています。



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説明板より。



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鉄門跡。

細川氏時代に中津城は改修され、元和6年(1620)には22の櫓と8つの門が設けられました。この場所には本丸内に通じるトンネル状の門が設けられ、扉の表面には鉄板を張り付けた強固な門であったといいます。
現在鉄門跡は埋められ、石で塞がれています。



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中津川。
以下城の構造について、wikiより。

周防灘(豊前海)に臨む中津川(山国川の派川)河口の地に築城された梯郭式の平城である。堀には海水が引き込まれているため、水城ともされ、今治城高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため扇形に例えて「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていた。




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本丸北側も黒田時代と細川時代の石垣の差が確認できます。



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説明板より。

y字型の目地が確認できます。黒田時代の石垣が四角く加工されているのは、先ほどと同様に古代山城の成形された石を転用しているため。



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本丸内へ。

南西側隅にある中津神社。



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中津神社は、かつて松の御殿が建っていたところ。

松の御殿は文久3年(1863)に藩主姫君達を住まわせるために建てられた新殿で、廃藩置県後は小倉県や大分県の中津支庁舎として使用されたが、明治10年(1877)西南の役に参戦する「中津隊」の襲撃にあい灰燼に帰した。



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鉄(御)門跡。本丸側から。



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城井神社(きいじんじゃ)。祭神は宇都宮鎮房。

「軍師官兵衛」宇都宮鎮房役が村田雄浩さんに決定したことを大きく掲げています。実力派らしく力演されましたね。私はあの辺りの放送回は鎮房側に立って官兵衛黒すぎ自重しろと思ったくらいですよ(笑)

城井谷城主宇都宮家は信房より鎮房に至る16代およそ400年の間豊前国守として徳政を布いた。
天正15年(1587)5月豊臣秀吉は九州平定にあたり豊前六郡を黒田孝高に、二郡を毛利勝信に与え、 鎮房には四国今治(12万石)移封の御証判を与えた。
鎮房は累代の墳墓の地の安堵を願い、このご朱印状を返上したため、宇都宮一族は黒田孝高、長政と豊前の地で死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦(峯合戦)では長政を敗退させた。そこで秀吉は孝高と謀り所領安堵を条件として長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し和睦した。
天正16年(1588)4月20日鎮房は中津城に招かれ酒宴の席で謀殺された。
天正19年長政は深く感する処があって城内守護紀府(城井)大明神として鎮房を祀り、福岡移封後はその地に警固大明神として祀った。
宝永2年(1705)小笠原長円は小社を建て城井大権現として崇め、その後幾度かの変遷の後城井神社と改められた。

 中津市
 中津の郷土史を語る会




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扇城神社。祭神は宇都宮鎮房従臣45柱。
探訪時は社殿新築中のため遷座中。

大河での謀殺シーンは緊迫感ありました。今年の大河と同じ放送局が制作しているとはとても思えません。

天正16年(1588)宇都宮鎮房公従臣は、庶子空誉上人(鎮房公と静の方の間に生まれた)の合元寺に止め置かれ、鎮房公は小姓松田小吉を伴い中津城内の館で謀殺された。
異変を知った家臣群は次々に城中に駆け上がり、龍が荒れるように戦った。小姓松田小吉は19人に手傷を負わせ京町筋で討死、野田新助・吉岡八太夫は手傷を負い広津広運寺まで切り抜け追腹、その他二士は合元寺門前に遁れ戦い遂に庫裏にて討死、その他ことごとく討死した。家老渡辺右京進は7・8人を薙ぎ伏せたという。
松田小吉は小吉稲荷として京町に、野田新助・吉岡八太夫は広運寺にそれぞれ埋葬され、その他の従臣の遺体は寄せられ城内乾の上段、この地に埋葬された。
宝永2年(1705)小笠原長円公は広運寺追腹の二士を小吉稲荷大明神とともに祀った。その後変遷。城井神社再興後、大正9年(1920)4月20日、鎮房公従臣45柱を境内末社として祀ったのである。

 中津市
 中津の郷土史を語る会




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軍師 黒田官兵衛 最大の宿敵

「最大の宿敵」はどうかと思いますが、これくらいのPRをしないとNHKには伝わらないのかもしれません。
関東圏では宇都宮鎮房の知名度は低いですが、この大河で認知度はアップしたと思われます。
京築フィルムコミッションはいい仕事しましたね。



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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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