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府内城① ~豊後最大の城下町~

100名城の一つ、府内城
近世府内藩の藩庁として藩政が行われた場所です。
現在も大分県庁・大分市役所が隣接しており、大分の政治の中心の役割は引き継がれています。



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走行中まず初めに目にしたのは、復元された東之丸東南隅櫓。
白漆喰の櫓を見ると、まさに近世城郭といった感じを受けます。

普段はどうかは不明ですが、この日は本丸内に駐車することができました。
本丸内で何かの撤去作業を行っており、邪魔にならないように隅っこに駐車。



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周囲から紹介します。
まずは北の丸付近から見た本丸(西丸)西側。
現在の出入口は後世に付けられたもの。



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本丸(西丸)西側堀。狭間付きの土塀の白さが印象的。
石垣の下に全面犬走りがある事も特徴と言えます。

正面奥の目立つビルは大分合同新聞社本社。



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復元された西南隅二重櫓

奥に見えるのは大分県庁舎新館。



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同じく西南隅二重櫓。
白漆喰が映え、撮影スポットの一つ。

犬走りの有無に差があれど、雰囲気的には海城である高松城と通ずるものがあります。
府内城は現在は市街地の中にありますが、往時は北から東にかけてすぐ海に隣接しており、海運を利用した水上の要塞であったといいます。

なおこの時は特に意識せず写真を撮っていますが、右側にある黄色丸で囲った櫓は宗門櫓。
城内に2基ある現存櫓の一つ。



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南側、大手門正面

背後には道路を挟んで大手公園。



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右手には着到櫓(復元)



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道路元標だ!
道路愛好家の端くれとしてうれしい発見。



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府内城あんない

府内城は1597(慶長二)年、福原直高により築城が始められ二年後には一部が完成しましたが、直高の領地没収によって中断、これに代った早川長敏も1600(慶長五)年、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成方)に加担して取り潰されました。次いで翌年、竹中重利が入封して築城工事を再開、石垣の築造には熊本藩の加藤清正の援助を受けるなどして、1602(慶長七)年四重の天守閣がそびえる城郭が完成しました。続いて城下町の建設が始められ、やがて東西約1.1キロメートル、南北約1キロメートルにおよぶ、豊後最大の規模を誇る府内城下町が出来上がりました。

荷揚城とも呼ばれる府内城は、大分川の河口左岸、別府湾に接したかっての「荷落ろし」(交易地)の場所に城地を定めました。荷揚の城名の由来は「落」の字を忌み、「揚」の字に改めたといわれています。今はその面影はほとんど失われていますが、府内城と府内城下町は内堀(現存)、中堀、外堀の三つの大きな堀をもち、北は海に接してまさに水城ともいえる城でした。また、その美しい姿から白雉城とも呼ばれています。

城と城下町を完成させた竹中氏は、その後長崎奉行を兼務していた重義の時に、非違をとがめられて断絶しました。代って1634(寛永十一)年、壬生城(栃木県)から日根野吉明が入封しましたが、あとつぎがなく、一代で断絶しました。次いで松平(大給)忠昭が1658(万治元)年に新藩主として入封、以来1871(明治四)年の廃藩置県まで、二万余石の譜代大名として10代にわたる藩主によって府内藩政が進められました。この間1743(寛保三)年に城下におこった大火によって、天守閣を始め城の施設が多く焼失し以後天守閣は再建されませんでした。

1871(明治四)年11月大分県が成立、翌年城内に県庁が置れて県政の中枢を担う場所となりました。1921(大正10)年には、新県庁舎が竣工しましたが、戦後1962(昭和37)年県庁舎の移転にともない、1966(昭和41)年には現在の大分市文化会館が完成しました。この年、1945(昭和20)年の米軍の大分空襲により焼失した五つの櫓も復元(鉄筋コンクリート製)され、往時の姿を取りもどしました。

城跡は旧状をとどめる堀、土塀、宗門櫓、人質櫓、櫓(天守台)跡が県史跡に指定され、また城跡公園として市民の憩いの場になっています。


この城は大友氏とは全く関係ないのですね。もともとここに大友氏の館か何かがあって、それをのちの領主が近世城郭に改修したものと漠然と思っていましたよ。



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大手門(多聞櫓門)

昭和20年(1945)の空襲により焼失し、昭和40年(1965)に復元されたもの。



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本丸内

写真は大分文化会館が建っていたところ(2013年10月に閉館)。先人たちの登城記にはこの文化会館について景観を損ねていると言及しているものも少なくありませんが、私は城内に公的施設があることに対する受容度はかなり高い方なので、何も無くなってしまうと寂しいとすら感じてしまいます。

今後本丸内建築物の復元計画があるのか、あるいは本格的な公園整備計画でもあるのならともかく、計画未定でとりあえず壊すことありきの見切り発車だとしたら個人的には残念なことです。資料館兼スタンプ設置施設にでも転用しておけばよかったのに。

現状では100名城巡りのライトな城ファンは、大手門から期待して入ったところ内部はすっからかんだと感じてがっかりしてしまうのではないかと思います。



府内城
縄張図

本来は大手門から入って内側にもう一つ内堀があったが、明治期に埋め立てられてしまい、現状は本丸と西之丸・東之丸とが一体となっています。



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内堀跡は現在表示板があるのみ。

奥に見えるのは本丸北二重櫓台。
この脇から天守台に登ります(案内表示なし)。



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北二重櫓跡

周囲をすべてフェンスに囲まれている櫓台というのも珍しいかも。



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北渡櫓跡の上を通って天守台へ。

やっぱりフェンス珍しい。



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フェンス越しに眺めた人質櫓。
城内に2基ある現存櫓の一つ。

その名の通り、実際に人質を収容していたといわれています。



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天守台上部

慶長7年(1602)に竹中重利により天守が築かれ、寛保3年(1743)の大火災により焼失したという。それ以降天守は再建されることはなかった。天守の構造は不明で、正保城絵図等では層塔型の白い四重天守が描かれているが、望楼型天守であった可能性もあるといいます。

ここからは城内の様子が一望できます。



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本丸内の様子。
東側半分は工事車両が大量に止まり何かの撤去整備作業中だったので立ち入れず。

どういう整備をするつもりか不明ですが、やるなら内堀を復活させることから始めてはいかがでしょう。



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眼下の人質櫓



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山里丸方面

廊下橋も確認できます。



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東之丸方面

折れのある縄張りラインの奥に見えるのは復元された東之丸東北隅櫓。

2014年現在、現存櫓2基のほか、大手櫓門と4基の櫓が復元されています。



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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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