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府内城② ~廊下橋と人柱お宮~

府内城は、大分市街の中心に位置する梯郭式平城である。安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高が府内の荷落に築城を始めたが、福原氏は改易され、早川長政の府内領再封を経て、関ヶ原の戦いの後に3万5千石で入封した竹中重利が完成させた。

江戸時代には府内藩2万1000石の藩庁が置かれていたが、明治初期に本丸・東丸・西丸の建造物以外は破却され、堀の一部が埋め立てられた。さらに第二次世界大戦時の大分空襲により櫓が数棟焼失した。

現在、城跡は大分城址公園となっている。本丸跡北西隅に人質櫓(二重櫓)と西丸に宗門櫓(平櫓)が現存し、大分県の史跡に指定されている。また、3棟の二重櫓と大手門、土塀、廊下橋が復元されており、三の丸跡には、大分県庁・大分市役所などがある。

西丸跡には1966年に大分文化会館が建てられたが、2013年10月に閉館した。跡地の利用方法は未定で、城址公園も含めて今後検討される。なお、大分市は1993年に、大分文化会館を解体した後の構想として、中期的に発掘調査、城内整備を行った後、長期的には天守閣再建を含めた府内城の復元を行うとする府内城整備基本構想を策定しているが、経済情勢の変化等のために実現の目途は立っていない。 (wiki参照)


うお~い、やっぱり解体は見切り発車だったんかい!

天守再建なんていくら費用が掛かることか。県や市の通常予算では実現は厳しいでしょう。
(名古屋市や福岡市くらい資金力があれば別ですが。)
市民から莫大な額の寄付でも集まればあるいは可能性があるかも、といったところか。

そう考えるとこれまで複数の櫓や廊下橋をよく復元できたものです。昔は景気が良かったんですかね。
あとwikiさん、復元された櫓は4基ありませんか。
(東丸東南隅櫓、東丸東北隅櫓、着到櫓、西丸西南隅櫓)
東南隅櫓は本来平櫓だったらしいから、それを除外しているのだろうか・・・?
まあwikiの内容にいちいち突っ込むのもアレですけど。



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再び北二重櫓跡下。

以下の説明板が設置されています。

人柱 お宮

今からおよそ400年前、福原直高が、この地に荷揚城(現在の府内城)を築城する際、度重なる水害に工事が進まず人柱を立てることになりました。上野六坊に住む孝行娘のお宮が一家を救うために立ち、弁財天の木像を抱いて人柱となりました。その後、築城は順調に進み、お宮は弁財天とともに府内城の鎮守としてあがめられたと伝えられています。
手前の階段を下り、お堀にそって天守台の下にお宮を祀った祠があり、毎年3月18日に法要が行われています。


大分県立図書館のHPには以下のようにもう少し詳しい話が掲載されています。

城跡の西北、石垣の下の水辺にある祠。これが、お宮(みや、おみわ)の墓だと言われています。府内城の築城が始められたのは、慶長2年(1597)で、石田三成の妹婿の福原直高が府内藩12万石の領主となったときです。府内城は大分川と毘沙門川に挟まれた河口部に築城されていますが、地形上湧き水が激しく、築城には困難を極めました。そこで人柱を立てるということになり、近隣に「人柱の遺族には一生安楽に暮らせるよう保障する」というおふれが出されました。これに応じたのが、上野六坊に住む貧しい一家の孝行娘お宮でした。歴代の城主は、毎月この堀に舟を浮かべ、お宮の霊に参る習わしだったといいます。府内城が俗に“みわが城”、“宮ガ城”と呼ばれるのは、この伝説のためだといわれています。

また、お宮の伝説には、もう一つの異説があります。普請奉行が、なかなか進まない工事の責任をとって自刃し、この奉行の娘みやが、父の志を継ごうと人柱に立ったというものです。この伝説は、『府内城物語り』(大分合同新聞社)に紹介されています。


近世城郭にはほんとにこの手の話が多いですね。
著名な近世城郭のほとんどに生き埋めやら人柱やらの逸話が残っている気がしますよ。



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廊下橋の本丸(西の丸)側の出口は虎口状の構造になっています。



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冠木門礎石。

かつて西の丸と廊下橋の間には冠木門がありました。
礎石には柱跡の穴も残っています。



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廊下橋。



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廊下橋内部。

橋のほぼ中央に例のモノが設置されています。



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100名城スタンプ発見。
ゴム印タイプ、しかも外部放置パターンで、状態が悪い可能性も考えられたが、印影の状態は可。
外部放置タイプにしては状態はいい方と思われます。

これでこの旅13個目、トータル87城目。
これにて今回の九州の旅でのスタンプノルマは完全達成。いろいろあったなあ。

各種パンフレットもここで入手。
「府内城下町散策ルートマップ」は城下町探索を行うつもりなら必携の資料。

なお掲載は省略していますが、大手門櫓にも同じくスタンプは設置されています。そちらも同じくゴム印タイプで、状態は似たようなものでした(若干廊下橋のほうがいいかも)。どちらの設置場所にもスタンプ設置個所を示す例のオレンジ色のステッカーは張っていませんでした。



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廊下橋から眺めた堀の様子。

鯉がたくさん泳いでいます。



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廊下橋出口の傍らに佇んでいるのは・・・ねこさんだ~!

ねこたんは涼しい場所を見つけるのが上手。この日も30℃を軽く超える暑さでしたが、ねこたむがいるところは橋内部から若干涼しい風が流れるところなのでしょう。なでなでしておきました。



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廊下橋

松栄神社の場所は、かつて山里丸と呼ばれた郭のあった所です。山里丸は、茶の湯や能、月見などの諸芸能が営まれた特別な場所であり、府内城の風格を示す貴重な史跡です。

山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架けられた渡り廊下が、この廊下橋です。山里丸と同様、他にあまり例を見ない貴重な史跡であることから、平成8年度に復元しました。

復元に先立って、平成7年度に行った発掘調査の結果、「慶長期絵図」に示された石垣が確認され、その内容が正確に伝えられていることも分かりました。復元に際しては、「慶長期絵図」「松栄神社所蔵絵図」等を参考にしました。廊下橋の規模は、長さ21.7m、幅員2.4m、橋脚高3.8m、建築部分の最高高さ4.6m、檜造り、壁はしっくい塗り、屋根は檜皮葺きとなっています。


かつては海城の要素があったが故、堀を挟んだ郭間の連結には廊下橋形式の方が有効だったのでしょう。
同じく廊下橋(鞘橋)を持つ高松城とますます似ています。



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なおこの廊下橋、24時間開放ではなく利用時間制限があります。
夜間や早朝に行っても通れませんのでご注意を。



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山里丸に鎮座する松栄神社。



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松栄神社沿革

当神社は慶長末期、上州(現在群馬県)水沼村に松平家(徳川家康生家)の祭神近正八幡宮として創祀され、戦国時代混乱治世の神、疫病災厄鎮護の神として国内に名声高く国民の信仰顕著なりしため、享保14年(1729)豊後府内藩主直参の宮として城内山里の邸この土地に祭祀され、寛政11年神託により松栄山(現県護国神社社地)に遷宮、松栄神社と称されたがその後、日田広瀬久兵衛の助言もあり、藩財政の確立成り、幕府の信頼も厚く国内の信仰いよいよ広まり明治18年住民の信望に応え、市内堀川町奉行所跡地に新宮建立遷宮す。
更に明治33年現在地に復元し今日に至るが、その後幾多の災害や昭和20年の大戦災も奇跡的に免れ全市民の信仰益々厚く祭典も数日に渉り盛大に行われたが、終戦後世相の変遷により荒廃極に達したので、昭和43年全市民の協賛により明治百年記念改修が行われ面目を一新し、時恰も新産都進行の途上の市発展守護の神とし、市民のシンボルとなり、加えて疫病免除産業繁栄の神徳を祈る参拝者は日を追って増加しつつある。
 
府内藩記録資料より


突然群馬県の文字が現れてびっくり。



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山里丸から見た人質櫓。奥には天守台の姿も見えます。

人質櫓は天守から常に見張られている位置関係にあることが改めてわかります。
背後からの常時監視なんて嫌すぎです。



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同じく人質櫓。

このあたりの水堀の幅の広さが素晴らしい。



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「慶長期の石垣」
築城当時の慶長期(1600年前後)に積まれたもので、山里丸(現松栄神社)を囲む石垣の一部。

この場所は古図では山里丸の端にあたります。



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廊下橋内で入手した資料に、浄安寺敷地内に府内城を完成させた藩主竹中重利の墓があると記されていたので探してみたが、それらしいものは見つかりませんでした。地図の位置表示間違ってないかな。
っていうかずいぶん近代的な寺だな。

右は従五位下対馬守松平氏源近貞の墓。



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最後にもう一度廊下橋を。



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所在:大分県大分市荷揚町
評価:★★★★

がっかり100名城のうわさも聞いていましたが、なかなかどうして見どころは探せばあります。水堀は広大で、炎天下の状況では周囲を一周する気が起きないほどでした(笑)工事車両のせいで本丸内をくまなく探索できなかったのが多少心残りではありますが、今後何かしらの復元整備の動きが起きれば、整備後にまた訪れたいと思える城でした。
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KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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