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大友宗麟墓所

9月28日。九州遠征8日目。
天気は晴れ。本日も真夏日確定でどうしょうもありません。
来年からは遠征期間を1週間先送りすることを真剣に検討しましょう。

本日は前夜の宿営地・津久見市からのスタート。



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津久見の街並み。

本日最初の城に向かう前に、津久見市内のとある場所に立ち寄ってみようと思います。



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そのとある場所とは宗麟公園
住宅地の傍らの小高い丘にあります。



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津久見は戦国時代の一時期、九州を席巻した戦国時代の武将であり、キリシタン大名としても知られる大友宗麟(1530〜1587)の終焉の地です。公園に隣接した杉木立の中には、宗麟公の墓(市指定史跡)と、建築家・磯崎新氏設計のもと新調されたキリスト教式の墓が建てられ、厳粛な雰囲気をかもし出しています。



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顕彰会設置の、キリスト教式墓。



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寛政年間旧家臣末裔により改葬された墓碑。市指定史跡。



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大友宗麟公墓 (市史跡 平成八年一月十一日指定)

大友宗麟(1530~1578)は、戦国時代、中北九州六カ国を支配した武将として、また、キリシタン大名として有名です。
ここ中田引地(大分県津久見市)は、その宗麟終焉の地です。樹齢100年を超える杉木立は、かつて「天徳寺の森」(宗麟が建てた教会)と呼ばれ、森の中は凛とした空気を漂わせています。

「宗麟」という名は、永禄五年(1562)禅宗に帰依し、剃髪して名乗ったもので、通り名として一番使われている名前です。
宗麟と津久見とのかかわりは40代後半、天正六年(1578)の日向進攻以前に遡ります。その後、天正11年、天徳寺に隠居すると、この地に長年の夢であったキリスト教による理想の国づくりを目指します。しかし、志半ばにして昇天。享年58歳でした。
当初はキリスト教式の墓に葬られましたが、秀吉によりバテレン追放令が発せられると、長男義統(吉統)は仏式に改葬しますが、その墓も荒廃してしまったといいます。

現在の墓は、寛政年間(1789~1801)旧家臣の末裔臼杵城豊により改葬されたもので、この時城豊は墓碑を新調し、長泉寺(市内宮本町)に供養を依頼したといいます。
墓石正面には「瑞峯院殿前羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士」、側面には「天正十五年丁亥五月廿三日春秋五十有八歳」、「九州二島伊豫官僚 従四位下兼左近衛少将 大友左衛門督源義鎮」とそれぞれ刻まれています。その碑文を読む時、家臣の主君に対する畏敬の念が伝わってくるような気がします。

時代が移り変わる中、堂宇も建て替えられましたが、昭和52年、上田保氏を発起人として「大友宗麟公顕彰会」が結成され、磯崎新氏の設計のもと、キリスト教式の墓碑を並べ、今日みるような墓地に生まれ変わりました。



大友宗麟主役の大河とか面白いと思うのですが、いかがでしょうNHKさん。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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