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緒方三郎惟栄館 ~蛇神の末裔伝説~

原尻の滝よりR502を佐伯方面に向かうと、左手に突然看板発見。



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緒方三郎惟栄館

全くのノーマークではあったが、反射的に車を停めます。

緒方惟栄という人物について、wikiより。

緒方 惟栄(おがた これよし、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領した。通称は三郎。諱は惟義、惟能とも。祖母岳大明神の神裔という大三輪伝説がある大神惟基の子孫、臼杵惟用または佐伯惟康の子。

『平家物語』に登場し、その出生は地元豪族の姫と蛇神の子であるなどの伝説に彩られている。

宇佐神宮の荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだ。治承4年(1180年)の源頼朝挙兵後、養和元年(1181年)、宗家の佐伯氏および臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった。寿永2年(1183年)に平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした。同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたためこれと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った。こうした緒方一族の寝返りによって源氏方の九州統治が進んだとされる。

惟栄は、源義経が源頼朝に背反した際には義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。このとき義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて佐伯に戻ったとも、途中病死したとも伝えられる。ただし処罰の対象になったのは惟栄とその直接の親子兄弟のみであったため緒方一族の大勢には影響がなく、その系流にある緒方氏各家が後々まで豊後南部を拠点に活躍し続けた。これは大友氏被官の有力国人として残り、大友氏が改易された後も藤堂氏や木下氏に仕官して現在まで血脈を伝えている。




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館跡とされる場所は広い空地になっています。遺構らしきものは特にありません。
左写真に見える石塔は館跡を示す巨大な碑。



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「都は源氏に 九州は緒方惟栄のために追い出され・・・」


緒方三郎惟栄は、緒方荘の荘司で源平合戦の頃、豊後武士団の首領として華々しい活躍をみせた。当時の緒方荘は、宇佐宮の荘園であり、緒方惟栄は、平重盛の御家人であったが、平家や宇佐宮の支配に強く不満を感じていた。平重盛の没後、惟栄は反旗を翻し、寿永二年(1183)平家が都落ちし大宰府に至ったとき、藤原頼輔の命により大軍を率い臼杵惟隆とともに大宰府を攻め、平家を追い落とした。また、源氏が周防灘から豊後に渡り平家を攻める時、惟栄は源頼朝の命に従い、兵船八十二艘を献上し平家討伐に大いに貢献した。惟栄は、豊後の国衛機構を支配していたため、周防灘、豊後水道の制海権を掌握することができ、容易に兵船を集めることができたのだといわれている。その後、平家は壇ノ浦に追い詰められ、安徳天皇とともに滅亡した。この功績により、惟栄は鎌倉幕府体制下では有名な御家人となり、おそらく豊後の守護職に任じられたはずであった。ところが、元暦元年(1184)七月、惟栄は臼杵惟隆等と共に、宇佐宮を焼き討ちし、神殿の破壊や宝物、古文章の奪取、神官の殺害などの大罪を犯した。年貢米未納入による宇佐宮との争いや、平家一返倒であった宇佐公道への反感が原因と言われている。朝廷側は大いに驚き、神罰を畏れ、緒方惟栄等を流罪に処し領地も没収することになった。しかし文治元年(1185)十月突如として非常の赦しが発令された。平家討伐に多大な貢献をしたための恩赦であろうといわれいる。この頃、源頼朝と義経の仲は決定的な破局をみかえていた。頼朝は義経討伐の命令を下し、義経は後白河院に強要し頼朝討伐の院宣を下させた。しかし義経に呼応する者はなく、やむなく九州に降ることを決心した。義経は、院に対して豊後武士等に協力させるよう要求した。緒方惟栄等の傑出した戦力を期待した上での要求であった。そして十一月六日、惟栄は大物浦(現尼崎市)で義経を迎え豊後へ出発しようとした。しかし、運悪く夜半から大風が吹き荒れ船団は壊滅してしまった。義経は和泉浦に逃れ、惟栄等は捕らえられた。文治二年十一月、惟栄は上州沼田荘(現群馬県沼田市)に配流された。大蛇の子孫であると畏れられ、平家討伐におそるべき能力を発揮した惟栄は、義経、頼朝の争いに巻き込まれ、あえなくその姿を歴史上から消してしまった。大神姓佐伯氏系図によると、後に赦され佐伯荘に帰ったとされる。また、伝承では、赦されて帰る途中、速見群山香郷で平家の崇りにより落馬して死んだとも云われている。なお、この地は古くから惟栄館跡と伝承されており、豊後国誌には「緒方惟栄館跡緒方郷上自在田間二在リ」と記されている。

緒方町教育委員会



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所在:大分県豊後大野市緒方町上自在
評価:

遺構は定かではありませんが、立派な碑が建っています。攻城予定になかったので儲けものでした。緒方三郎惟栄について調べてみると、いろいろと興味深い逸話が出てきます。wikiリンクに奥の奥豊後 三郎プロジェクトというものまでありました。さすがに大河は無理じゃないかなと感じるも、今年の大河の主役が成立するならこの人のほうがよっぽど主役として面白そうだと思い直しました。大河実現可能性0じゃないですよ。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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