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岡城④ ~荒城の月~

櫓台から降りるとそこは三の丸。



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三の丸碑。背後は本丸石垣。

武具庫もあったようです。



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本丸高石垣。



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本丸石垣下、三の丸から二の丸への途中にある空井戸。
深さは73m、穴の直径は上部入口3m、下部2m。

入口より四間半迠、石で巻下し、底は水なく平たき石を詰めあり。北方の石垣の隙より風が通っている。底より高さ四尺の処に東向に穴あり、その深さ手の届く程度の処に観音像らしきものが安置されている。(現地説明板より)


上記の内容から、非常時の抜け穴であった可能性もあります。



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(左)本丸北側下にある二の丸。

(右)二の丸から見た本丸石垣。



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二の丸は主城域の中でも北側に飛び出した形状をしており、西側にある三の丸石垣を見ることができます。
冬場ならもっとはっきり石垣が見えることでしょう。



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「荒城の月」作曲者、瀧廉太郎像。
瀧廉太郎はここ竹田に住んでいた時期があります。

土井晩翠が詞を構想したとされる宮城県仙台市の青葉城址、同じく福島県会津若松市の鶴ヶ城址、また、当時、リンゴ狩りに訪れた際に立ち寄った岩手県二戸市の九戸城址、そして瀧廉太郎が曲を構想したとされる大分県竹田市の岡城址、同じく富山県富山市富山城西側にそれぞれ歌碑が設置されている。(wiki「荒城の月」項参照)




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本丸へ。



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本丸跡。



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説明板。

国指定史跡 岡城

岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられるが(*註1)、惟栄は大物浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。

建武のころ豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安二年(1369)から後で(*註2)、その城はきむれの城(騎牟礼城)であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。

天正十四年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城をおそい、わずか十八歳の志賀親次(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄二年(1593)豊後大友義統が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。

文禄三年(1594)二月、播磨国三木城から中川秀成が総勢四千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし(*註3)、急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は慶長元年(1597)に完成、寛文三年(1662)には西の丸御殿がつくられ、城の中心部分とされていった(*註4)。

明治二年(1869)版籍奉還後の四年(1871)には十四代・277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は七年(1874)大分県による入札・払い下げ(*註5)ですべてが取りこわされた。

滝廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治三十四年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。

*註1 『豊後国志』巻六 直入郡の項による。但し当時、惟栄は京都に滞在していた可能性が極めて高い。(『源平の雄 緒方三郎惟栄』)
*註2 『豊後国志』巻六 直入郡の項による。但し、志賀氏の直入郡進出は、応安二年直入郡代官職・検断職を預けられた以降で、天文二十一年ころは大友氏加判衆(老職)をも勤めていた。(『竹田市史』上巻)
*註3 『中川史料集』に「滋賀湖左衛門親次が旧居に御住居」とあり、戦国時代の城郭を基礎として近世城郭の整備・城下の町割り(竹田町の建設)などをおこなった。
*註4 岡城は山城的殿舎(御廟)、平山城的殿舎(本丸・二の丸・三の丸)、平城的殿舎(西の丸)で構成され、これらが一体となっていることは近世城郭史上特異な城である。
*註5 明治七年二月十九日付『大分県布告書』で、(県内五城の建造物)岡城は六十九棟が入札に付されている。




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説明板記載の岡城絵図。

これと同じ図は巻物にも描かれてます。



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南側眼下を走るR502。
実は大手門から城内に入った時すでに、下の方から「荒城の月」のメロディが聞こえてきていました。

岡城の下を走る国道502号の上り車線にはメロディ舗装がなされた区間があり、車が通過すると荒城の月のメロディが聞こえるようになっており、岡城からでもその音を聞くことが出来る。(wiki参照)




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岡城天満神社

ここ岡城本丸跡は、中世の志賀氏時代は天神山といわれ、天神祠(やしろ)が祀られていました。中川氏時代になると城を拡張して、この天神山を本丸として天神祠を岡城の守り神としました。そして1595年(文禄4)4月29日に社殿を新築し、片ヶ瀬(この拝殿の対岸の丘陵地帯)の天満神社が所蔵していた狩野元信筆といわれる「菅原道真公の影像」と、名刀「天国作の太刀」をご神体として迎えて祀りました。(説明板より抜粋)




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本丸最奥(東隅)にある金倉跡。

近世の藩庁としては何よりも重要な建物。
実務的には天守よりも重要だったでしょう。



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金倉跡から眺めた東側の様子。
眼下の括れた部分が東中仕切跡。城域中心部と東側のエリアとを分ける部分。

東側エリアには三楽亭・荘嶽社・御廟所といった施設の跡があります。
軍事的・政治的な面よりも宗教的な面の強いエリアであったようです。

残念ながらこの先は確認できていません。
その①で触れたように、入城時に100名城スタンプを押していなかったため、いつ券売所に取って返そうか気が気ではなかったためです。

本丸から入口のスタンプ設置場所まで、それこそ5分もかからないくらいの高速移動で到着。
結果は無事押印することができました。
この旅12個目、トータル86城目。印影は良好でした。



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所在:大分県竹田市竹田
評価:★★★★★

期待通りの素晴らしい城です。文句なしの五つ星。これだけ素晴らしい城なのに、関東での知名度は驚くほど低いのが現状です。但馬の竹田城は近年一般観光客レベルでもブームとなりましたが(まだブーム続いてるのかな?)、豊後竹田城こと岡城も、もっと注目されてしかるべき名城です。今後ブームが来るかも?
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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