FC2ブログ

記事一覧

岡城② ~遙か阿蘇を望む~

大手門から入って正面に石垣に囲まれた区画があります。



P9270466.jpg P9270465.jpg
朱印倉跡。巻物の図では「朱印状倉跡」とあります。
公文書でも保管する蔵があった場所でしょうか。

彼岸花が彩りを添えています。



P9270350.jpg P9270351s.jpg
朱印倉跡から真っ直ぐ進むと本丸方面ですが、先に左手側にある西の丸方面へ行ってみます。
幅広の階段が特徴的です。



P9270352s.jpg
最初の階段を上ったところが東門跡。



P9270355.jpg
もう一段登ると広大な平場に出ます。
一瞬ここが山上であることを忘れてしまいそうな広さです。
ここが西の丸御殿跡。



P9270356.jpg
西の丸の南側の入口である新屋敷門跡。
この先は断崖になっていて、崖下は先ほど通ってきた土産物屋さんがある登城路のあたり。

巻物の図を見ると(注:現地では巻物を広げていない)、西の丸御殿にはいくつもの入口があるように描かれていますが、私が訪れたときの段階ではまともに整備されている入口は東門跡からの道と新屋敷門跡、それと秋葉社跡裏の入口くらいのようです。
北側中央に虎口らしき所がありますが、段下が激藪という謎の状況になっていました。
城内にはまだ未整備区間が残っているようです。



P9270358.jpg P9270360s.jpg
先ほど西の丸に入った時に奥に見えていた土壇状の地形。とりあえず上に登ってみたけど何もなく、しかも土が突き固められていないのか妙にふわふわしてやたら登りづらい。土塁や櫓台といった感触ではなく、ゴミ捨て場に捨てられた土の上を歩いたかのよう。そんなとこ歩いたことあるわけではないけど。

土壇の下に半ば埋もれた「秋葉社跡」の碑を発見したが、なぜこんな溝の下に設置してあるのだろう。



P9270362.jpg P9270365.jpg
西の丸御殿の北側段下にある平場。
家老屋敷跡の一つ・中川民部屋敷跡。



P9270366.jpg
眺めのいい場所に出ました。
奥には近戸門跡の石垣も見えます。

ここは竹田の城下町を展望できるスポットのようです。



P9270368s.jpg
設置されている案内図と照らし合わせ、鎮西八郎源為朝が砦を築いたと伝わる騎牟礼城を発見。



P9270370s.jpg
願成院本堂(愛染堂)の屋根も見えます。国重文。



P9270369.jpg
阿蘇山の姿も眺められます。

以前家族旅行で九州に来たときは、大分空港から阿蘇経由で熊本まで移動しました(熊本城2度目の登城時)。阿蘇カルデラの雄大な景観に感動した思い出があります。

いずれまた自力で訪れる日が来るでしょう。



P9270371.jpg
分岐。
近戸門跡からは急坂を経由して駐車場へと戻れます。

これは公然の秘密なのかもしれませんが、巻物の図を見る限り、駐車場から近戸門経由で城内に入れば入城料を徴収されずに済むような気もします。再訪時のためにこのことを覚えておこうっと。
なお初登城の人は巻物を入手することが大きな記念になるので、入城料を払って大手から入る事をおすすめ。



P9270372.jpg
普請方跡の石垣。
内部には井戸跡らしきがありますが、説明板等がないため区画の詳細は不明。

続いて覚左衛門屋敷跡方面へ向かう途中、深い谷の対岸に見えるのは・・・



P9270375.jpg
素晴らしい石垣。
あの石垣が見える対岸側がこの城の中枢部分。城域広いなあ。

っていうか、失敗した。まず何をおいても百名城スタンプを押してから入城するべきだった。
飫肥城での例もあるし、あの発券所の営業時間が気がかりだ。



P9270377.jpg
家老屋敷跡の一つ、中川覚左衛門屋敷跡。

岡藩家老中川覚左衛門家は、茶道織部流の祖、吉田織部正重勝の子孫です。覚左衛門家は、藩主中川家に代々仕え、中川の姓を賜り、延享二年(1745)にこの屋敷地に移りました。
吉田家の記録には、「ここは、字を奥近戸と言い、東南が開けて前に深い谷がある。竹林が繁り、西北には松の木があり、東西北には岩がそびえて、ここは険しい城のなかでも特に険しい所である。敷地には広く二千三百石取りの家老屋敷にふさわしい所である」といっています。
また、歴代の藩主は、城内外に屋敷を持つ家老・城代宅などへ立寄することが慣例で、覚左衛門屋敷には文化八年(1811)、安政四年(1857)・五年の三度の訪問が確認されています。
覚左衛門屋敷跡は、平成五(1993)~七年まで発掘調査を実施し、玄関部に向かう飛石列、屋敷の範囲を表す礎石、束石、狭間石等が確認されました。さらに、敷地内の様子や屋敷の間取りが詳細に記された絵図があります。整備は、その図と検出された遺構を基に、間取り等の復元を行いました。
復元は、畳の面まで床立ちさせ、柱、床束の足元、土台は光付け加工、その他の継手、仕口、仕上げ等は古来の技法によって加工しています。また、使用した材料の木材は、耐久性・寸法安定性の高い保存処理をしています。畳は、板を張り合わせて畳大に成形し、板畳の縁を黒色塗料で表現しました。

(説明板参照)





P9270379.jpg P9270381.jpg
復元された屋敷の間取り。
板を畳サイズに成型して表現しており芸が細かい。
「数寄屋」「奥書院」など部屋名も表示されています。

建築現場を見たことのある人なら実感が湧くかと思いますが、更地の上に基礎を打った間取りだけの状態では、実際建物が完成した段階よりも狭く感じてしまうものです。この屋敷は間取り段階でこれだけの広さを感じられるので、実際の建物はものすごく広いものだったのでしょう。



P9270382.jpg
屋敷跡からは対岸の主城域がよく見えます。眺めの上では特等席です。

縄張り的には主城域の北側を守る拠点でもあり、この場所を与えられるのは信頼されている証と思われます。



P9270383.jpg
屋敷地の一角には暗渠状の遺構も残っていました。



その③へ
関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ

プロフィール

KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

フリーエリア

Twitter

スポンサーリンク

カレンダー

04 | 2020/05 | 06
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -

メールフォーム

お問い合わせはこちらからどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文: