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岡城① ~豊後竹田の百名城~

宮崎は西都から大分は竹田まで、ひたすら爆走。結局宮崎県はほとんどの区間を素通りしてしまった。次回は楽して宮崎空港まで飛んで、周辺をじっくりと探訪することにしましょう。

次なる目的地、というか本日のメインである岡城に到達したのは15:30。
九州遠征全体においても特に楽しみにしていた城の一つです。



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広い駐車場は無料。ここは城の総役所跡であるという。
昔は入城無料であったそうですが、今は入城料300円を徴収されます。なんてこった。
整備費用が掛かるようですし、駐車料金も無料なので我慢しましょう。

観覧券発売所で入城料金を払うと、登城手形と巻物を入手できます。
この巻物は城の概要と縄張図が記されている凝ったものであり、一つは手に入れておきたい代物。
ただ巻物を全部広げないと地図を確認できないので、実用面では少し難あり。というか、私は探索中一度もこの巻物は広げませんでした。なんか汚れそうで嫌だったし。

そういえば100名城スタンプを、この登城時には押していなかったのでした。
前に並んでいたバイクの集団がやたらチンタラ手続していたので若干イライラしていたのかも。
冷静に考えれば真っ先にスタンプを押してから探索するべきというのは当然のことではあるのですが。



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豊後竹田の城下町マップ

武家屋敷跡のほかにも滝廉太郎記念館や廣瀬神社などなど、見どころ多し。
今回は城しか見ることができませんでしたが、いずれ再訪して城下町探索も行いたい。



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案内図

典型的な中世城郭の縄張りを、そのまま近世城郭に改修しています。険しい山城はこれまでいくつも訪れていますが、中世山城の縄張りを持つ総石垣の城というのは、類例は極めて少ないです。普通は山上の城は廃して山麓に新たに統治の城を築きますからね。

説明板の内容を書き写したいところですが、面倒なので以下wikiコピペ。

岡城は、豊後国直入郡竹田(現在の大分県竹田市大字竹田)にあった日本の城(山城)である。「臥牛城(がぎゅうじょう)」、「豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)」とも呼ばれる。

岡城の築かれた天神山は標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及んだ。

伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。その山城は、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。一方、『豊後国志』によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年(1369年)以降のことで、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城騎牟礼城)を居城としていたという。

天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けている。

豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなった。翌、文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀成が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施した。

この修築では、縄張設計に石田鶴右衛門、三宅六郎兵衛、石垣普請に山岸金右衛門などが携わり、志賀氏時代の城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営し、城の西側を拡張、重臣屋敷群を設けた。本丸に御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口であった下原門に加えて近戸門を開き大手門を東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改め、3口とした。また、城下町は志賀氏時代の挟田に加えて西方に竹田町が整備された。2代久盛の代には清水門が整備され、3代久清の時に西側の重臣団屋敷を接収して西の丸を築き御殿を造営している。岩盤の台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、特に8代中川久貞の明和8年(1771年)には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火が起きている。

明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみである。なお、昭和62年(1987年)には築城800年祭の記念行事として20日間限定で模擬天守が復元された。

昭和11年(1936年)12月16日、「岡城址」として国の史跡に指定され、平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(95番)に選定された。平成2年(1990年)には、「岡城公園」として日本さくら名所100選に選定された。





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大手口から登城。登城路沿いには山城としては珍しく土産物屋さんがいくつかあります。
櫓などの「ウワモノ」がない山城ではありますが、この城は十分に一般観光地として通用します。

眼前の断崖の上が西の丸付近。ちょうどいい具合に比較対象の人がいてくれました。



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「竹田系宝物殿」

あやしい。見るからに怪しいです。
資料館なのか美術館なのか。極めつけは「歴宝館」って。
秘宝館的なものを想起してしまいますよ。内部を確認できなくて残念。
(真っ当な歴史資料館だったら失礼。)



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(左)岡領(竹田)の有名No.10
皆さんいくつご存知でしたか。

(右)お隣の土産物屋さんのあたりが鉄砲方詰所の跡であるようです。



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立派な石碑

城主中川氏の末裔筆によるもののようです(伯爵 中川久順)。



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も一つ立派な城址碑。これだけでうれしい。
ここから本格的な登城路。

前の集団、比較対象にはちょうどいいのだが、ちょっと歩くのが遅すぎるなあ。
こっちはあちこち写真を撮りながらゆっくり進んでいるのに、あの方々全然前に進んでないよ。



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ということでさっさと抜き去る。
眼前には独特な形状の高石垣。
奥には櫓台のような石垣もそびえる。



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この丸みを帯びた石垣って、沖縄のグスクっぽいですね。



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結構急勾配です。
これは守りは堅い。



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大手門跡

先ほど下から櫓台のように見えていたのは、この門の石垣でした。

説明板によると、文禄3年(1594)中川氏入部後、大手・近戸・下原の三口を切り開かれ、慶長18年(1613)に朝日がまぶしいため古大手門から現在の位置に移されたそうです。
大手門は櫓門形式で侍番が置かれ、城中への出入りにはかなりの注意が払われていました。



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内側から見た大手門の跡



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現大手門の南隣には古大手門跡があり、石垣が残っています。



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古大手門跡付近から外部を覗いてみると、すごい断崖です。
ここまで要害地形が残る近世城郭というのはそうそうありません。
中世山城をそのまま近世城郭にしたというところは、こういった周囲の地形からも実感できます。


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KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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