FC2ブログ

記事一覧

舞鶴城 ~島津義久最後の居城~

舞鶴城は、別名国分城国分新城国分御屋形
国分小学校および隣接する国分高校一帯が城域になります。



P9260332.jpg
小学校南面を流れる堀跡の水路。石垣も立派。

左手の灯篭には島津義久が詠んだといういろは歌が刻まれています。



P9260331.jpg
城址碑

慶長9年(1604年)頃、島津義久はそれまで住んでいた富隈城から、新しい城を新設して移り住んだ。なお縄張りは、帰化した明人で加治木衆中の江夏友賢が担当。義久は寒村であった場所に京都風の碁盤の目をしき、明より商人を招いて「唐人町」を作るなど国分城下の町を整備したが、慶長16年(1611年)に義久が没した後は、義久の娘で18代当主・島津家久(忠恒)の正室であった亀寿姫が鹿児島城より別居させられて移り住んだ。寛永7年(1630年)に亀寿姫が死んだ後は国分城は藩主直轄の地となり、地頭屋形がおかれていた。
その後、薩摩国、大隅国の境に位置するという絶好の立地条件から藩主自体が鹿児島城から国分城に移転する計画が幾度も立てられ、島津斉彬は国分城下の測量まで行ったが、斉彬の死去により頓挫しこの計画は実行されなかった。明治10年(1877年)の西南戦争の時には山縣有朋がこの城に駐屯。その後は霧島市立国分小学校がおかれた。
城自体はそれまでの島津氏の城にありがちな中世屋形の形式であったが、裏山を後詰めの城「隼人城」としたため富隈城より防衛機能に優れた場所に立地した。この裏山は養老4年の隼人の反乱の時に使われた’曽於乃岩城’(そおのいわき)という説がある。この裏山は現在「城山」と呼ばれ霧島市立国分郷土館がある。

(wiki参照)



P9260336.jpg
舞鶴城想像復元図



P9260337sa1.jpg
同じく想像図(部分)

この絵図には周辺の国分麓隼人城の様子も描かれています。



P9260342.jpg
水路と石垣

小学校南側の水路と道路の間がちょっとしたスペースに整備されていて、各種説明板や石碑が設置されています。城とは関係ないよくわからない顕彰碑も多数建っていました。



P9260339.jpg P9260340.jpg
朱門(あかもん)へ渡る橋は保護のためかフェンス仕様になっています。
(立ち入り禁止ではない)



P9260347.jpg
朱門。舞鶴城内陣の門であったものを移築したといわれるが、その根拠は定かではありません。
門の色や形状・規模から、奥向きに通じる門ではなかったかと推察されています。

朱門のところまで来ると、小学校の校庭の様子が見えるようになります。
ちょうど小学生が運動会の行進(の練習?)をやっているところでした。



=============================================
所在:鹿児島県霧島市国分中央2丁目
評価:★★

城内の遺構は学校建設で失われていますが、石垣や堀の形状は良く残り、館城の雰囲気は感じられます。説明板なども充実しており、個人的に満足の城です。
=============================================
関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ

プロフィール

KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

フリーエリア

Twitter

スポンサーリンク

カレンダー

04 | 2020/05 | 06
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -

メールフォーム

お問い合わせはこちらからどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文: