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帖佐館 ~島津義弘居館~

文禄4年(1595)、栗野から帖佐に移った島津義弘は、平山城の麓、帖佐鍋倉宇都に館を築いて国守の治所とした。現在「御屋地(おやじ)跡」と呼ばれている所で、高さ二間ほどの野面積みの石垣が残っており、その南側が昭和37年姶良町の文化財に指定された。この御屋地造営のおりには、蒲生地頭阿多長寿院が真っ先に大石を運ばせたといわれ、また前面の石垣中には義弘の羽織掛石も見られる。
義弘は関ヶ原より帰ってのち、慶長11年(1606)に平松城へ、慶長12年(1607)には加治木館へ居城を移し、島津豊後守久賀を帖佐の地頭としている。

(城郭大系等参照)


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帖佐小学校から北へ300mほど進むと稲荷神社に突き当たります。
この一帯が帖佐館島津義弘居館)跡です。

車は境内に駐車することができます。木陰に停められてちょうどよかった。



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神社南面、市史跡にもなっている居館石垣。
高いところで3mほどでしょうか。
比較対象の人物や車でも映っていれば高さが一目でつかめるのですが。



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標柱。裏には説明がびっしり。
当時は石垣の上に築地塀九十九間があったといいます。
また館の規模について「南北約一九十㍍・東西一六十㍍」(原文ママ、実際は縦書き)とありますが、縦書き漢数字だと位の表記に違和感があります。



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境内にある説明板。島津義弘についての説明で埋め尽くされています。
朝鮮出兵時の経路や関ヶ原の布陣図までありますが、情報量が多すぎて雑多な印象すら受けてしまいます。
居館に関する説明をもっと充実させたり、周辺の関連史跡についての紹介にとどめておく方がわかりやすいのでは。



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大手門は東側に付けられていました。
標柱の説明によると、大手門は江戸時代初期に出水に移築され、現在出水麓の仮屋門として市指定文化財になっているとのこと。
石段途中にホゾ穴を持つ礎石が残っています。



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大手入口と、大手から北側の眺め。

境内には「維新公邸址之碑」も建っています。



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稲荷神社

島津義弘が慶長の役で20万の明の大軍に攻囲された時、赤白二匹の狐が火薬を抱いて明軍の中に突入し自爆した。このため明軍は大いに混乱し、これに乗じて島津軍は明軍を撃退した。義弘は狐の出現を稲荷社の加護によるとし、その狐の骨を持ち帰り、平山城の支城高尾城に祀り氏神として崇敬した。その後、高尾城の社地が崩壊の恐れがあるということで、文政10年(1827)、御屋地(帖佐館)に移された。
(神社由来記参照)



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稲荷神社東側の道沿いに「義弘公お茶の水取り跡」なる表示があったのですが、暑かったのと時間の都合で遠景にとどめておきました。



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帖佐館近辺図。
館の推定範囲は神社境内を超え北と西に広くわたっていたとみられています。
上の写真の「お茶の水」、目の前に見えた川沿いにあるものだと思っていたら、意外と奥地にあったようです。
行かなくて正解だったな。



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所在:鹿児島県姶良市鍋倉
評価:★★

立派な石垣が残ります。稲荷神社の由来も興味深く、動物系由来が好きな私にとってツボです。時間に余裕があれば周囲の史跡も併せて見学するべきでしょう。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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