FC2ブログ

記事一覧

平松城 ~越前島津家領主の館~

P9260153.jpg
城山を後にし、R10を暫し北上。
右手に桜島を眺めながら海沿いを走る快走路です。

姶良市に入り、重富郵便局前の交差点を左折。



P9260161.jpg
r57を少し進むとこのような案内があるので従います。
平松城は現在重富小学校の敷地になっています。



P9260174.jpg P9260165s.jpg P9260166s.jpg
小学校着。標柱発見。
標柱裏には城の沿革が記されていますが、もう一つ説明板があるのでそちらの内容を記載します。
ちなみにここは海抜16m。



P9260175s.jpg
戦国時代の天文23年(1554)、岩剣合戦と呼ばれた島津氏と蒲生・祁答院(けどういん)方との激しい攻防は、岩剣城の落城によって終止符を打ちます。 この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになりました。しかしながら、山頂から麓までの道は大変険しく日常生活には不便でしたので、麓のこの地へ館を築きます。これが平松城の始まりです。
義弘は慶長5年(1600)の「関ヶ原の合戦」直後にもしばらく在城し、慶長10年から翌年にかけて帖佐館からこの城に移り、加治木館へ移るまでの居館としました。その後、当城には島津義弘の夫人や娘の御屋地様が晩年を過ごしています。
江戸時代中頃の天文2年(1737)、藩主島津継豊は、弟の忠紀に鎌倉時代以来の名家である越前島津家を再興させます。翌年には帖佐郷から脇元村・平松村・船津村・春花村・触田村を割いて「重富郷」と名付けます。これ以後、平松城は越前(重富)島津家の領主の館となり、一帯には麓(重富麓)と呼ばれる家臣団の屋敷地が計画的に整備されていきます。
天明の頃、城内には藩内初期の学校である振業館が建てられました。島津久光も、若い頃越前家第20代当主としてこの平松城に住んでいます。
明治維新後、この地には重富村の役所や学校が置かれます。

(説明板参照)



P9260167s.jpg
こちらの説明板には重富郷の歴史、越前島津家の由来、外城制度についての説明。

案内図には平松城岩剣城諏訪城建昌城萩峰城新城平山城といった城の位置が表示されています。



P9260177s.jpg P9260179s.jpg
「剣の平 みておれ ぼくらは がんばるぞ。」

富重小学校の正門は、旧鹿児島県庁の正門(第2期:1879~1925まで使用)を移設したもので、国登録有形文化財になっています。



P9260179sa1.jpg
確かに同じ門柱のようです。



P9260173.jpg
学校の周囲の石垣はかつての居館の名残でしょう。



=============================================
所在:鹿児島県姶良市平松
評価:★☆

周囲の石垣が良く残っていますが、ここが城跡であるという予備知識がないと、小学校の周りによくある普通の石垣とあまり変わりなく思えてしまうかもしれません。表示物が充実している点は非常に満足。
=============================================
関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ

プロフィール

KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

フリーエリア

Twitter

スポンサーリンク

カレンダー

05 | 2020/06 | 07
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -

メールフォーム

お問い合わせはこちらからどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文: