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人吉城③ ~はね出し石垣と水運の城~

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二の丸

「御本丸」と呼ばれ、城主の住む御殿が建てられていました。
二の丸御殿には「御金ノ間」と呼ばれる金箔張りの部屋もあったといいます。

井戸跡や手水鉢なども残っています。



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二の丸から本丸への登城路



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本丸

三角形に近いいびつな形状をしており、礎石群が残ります。

周囲の垣は「竹茂かり垣」(その②三の丸説明参照)の再現でしょうか。



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本丸は、はじめ「高御城(たかおしろ)」と呼ばれていた。地形的には天守台に相当するが、天守は建てられず、寛永3年(1626)に護摩堂が建てられ、その他に御先祖堂や時を知らせる太鼓屋、山伏番所があった。礎石群は、いたぶきで4間四方の二階建ての護摩堂跡である。
中世には「繊月石」を祀る場所であったように、主として宗教的空間として利用されていることに特色がある。

(説明板参照)

(右)劣化激しい本丸標柱



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二の丸へ戻ります。
こちらの説明板には二の丸御殿平面図と城域中心部の見取り図が掲載。



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中御門方向を眺める



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三の丸虎口。その奥、一段下の曲輪が御津賀社跡。
お気に入りの写真。



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サッカー集団も、そろそろ終了の時刻でしょうか。



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中御門から大手道を下ります。
S字クランクとなっている登城路の先には球磨川の流れ。



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麓に出ました。



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御下門跡

「下の御門」とも呼ばれ、主城域へ上る唯一の登城口に置かれた門。



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櫓門形式の門で、櫓台の石垣が残ります。

すぐ北側には球磨川。最上川・富士川と並ぶ日本三大急流の一つ。



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川沿いには延々と石垣が伸びており、川ではカヌーを楽しむ人たちの姿が目立ちます。球磨川は人吉市内付近は比較的流れが穏やかということで、インターハイのカヌー大会が開かれることもあるそうです。
比較的穏やかとは言っても急流に面した石垣工事は難しかったようで、天正17年~寛永16年までの51年間行われたといいます。



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大村米御蔵跡・欠米蔵跡

人吉藩では藩内12ヶ所に米蔵を置いていた。



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左近の石 

重さ31トン、周囲10.83m、高さ2.19mの安山岩の岩。水の手橋中央部付近の球磨川中洲付近に置かれていた岩の一つで、昭和43年の河川改修工事の際に城内に移されたもの。慶長12年(1607)に中州を橋台として2つの橋が架けられたが、川の増水で橋が壊れることが多かったため、人吉藩家老の村上左近の進言によって中州が流出しないように中洲上流の先端に沈められた多数の巨岩の一つであるといいます。


ここでデジカメのバッテリー切れ。
熊本城の途中から電池残量残り1目盛に突入し、人吉に入ってからはずっと残り電池点滅の状態で騙し騙し写真を撮ってきたが、ついにうんともすんとも言わなくなってしまった。

そういえば携帯にカメラ機能がついていたなあ。考えてみたら使ったことが一度もなかった。
ということで試しに撮影。以下は携帯カメラ写真。
撮影時に変な音が鳴るのは何とかならんものか。



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堀合門

城主の住む御館の北側入口におかれた門。文久2年(1862)の*寅助火事でも焼け残り、明治4年の廃藩置県後に土手町に住む新宮家に移築された。現在の門は移築門や絵図などに基づき復元されたもの。

縮小すれば携帯画像もデジカメと大差なくなるものですね。

*寅助火事:
文久2年(1862年)2月7日正午頃に、鍛冶屋町にある鉄砲鍛冶の恒松寅助の家から出火した火災で、空気の乾燥した時期であった事、西北から強風が吹いていた事も手伝い、火は忽ちの内に川北から更に球磨川を越えて人吉城内にまで飛び火、650年以上に及ぶ相良氏の人吉治世下に於いて未曾有の大火災となった。
この火災による死者は奇跡的に皆無で、負傷者も3名程で済んでいる一方、城内、城下の家屋等に甚大な被害を及ぼし、藩財政、城下の再建、消失した武器の再編などに影響をもたらした他、慶応元年(1865年)9月25日に発生する丑歳騒動と呼ばれる藩内抗争へ飛び火する切っ掛けともなった。




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御館北側石垣

かつてはこの石垣上に長櫓が建っていたが、文久2年の寅助火事で焼失。その後櫓は復旧されず、防火のため石垣を高くし、その上端に西洋式はねだしを設置するはね出し石垣が採用された。

この工法は、幕末に品川台場で初めて導入され、五稜郭龍岡城等の西洋式城郭で採用されているが、旧来の城郭で採用されたのは人吉城が唯一の例であるとのこと。





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「武者返し」とも呼ばれる独特の造り。
防火のほか、ねずみ返しのように城壁越えを阻止する役割もある。

なおwikiではこの城壁は他には五稜郭鶴岡城鶴ヶ岡城)しかないと記載されていますが、私の記憶では庄内鶴ヶ岡城にはね出し石垣はないはずなので、明らかな誤記です。編集者が龍岡と鶴岡を間違えたのでしょうか。wikiの内容は相当部分デタラメなのでいちいち突っ込むのもあれですが。



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水ノ手門跡

正面3間の板葺建物。球磨川に面する水運のための門で、舟着場からの年貢米の搬入などに使われていた。

人吉城は球磨川・胸川に面した7ヶ所に船着場が造られており、川を外堀として利用するするとともに「水運の城」でもありました。



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所在:熊本県人吉市麓町
評価:★★★★

主城域の雰囲気が気に入りました。2万2千石の居城とは思えない雄大な城です。中央から遠く離れた地だからこそ認められていたものもあるかもしれません。江戸の近くで2万石の藩主がこんな居城を築いていたら速攻で取り潰されていたことでしょう。珍しいはね出し石垣やここにしかない地下室遺構なども高ポイント。デジカメバッテリー切れした後は駆け足の見学になってしまったので、またしばらく(20年くらい?)したら中世城郭部分と合わせて再訪したいと思います。そのころになったら西外曲輪の武家屋敷群なども復元されているかもしれませんね。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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