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人吉城② ~相良氏35代の居城~

人吉城は相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれており、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀とし、東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁として、巧みに自然を利用している。球磨川沿いに三の丸を配し、その南に二の丸、さらに丘陵上に本丸が配されている、梯郭式の平山城である。本丸には天守は築かれず護摩堂があったといわれる。

源頼朝に仕えた遠江国相良荘国人の相良長頼は元久2年(1205年)肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた。この地は平頼盛の家臣の矢瀬主馬佑が城を構え支配する所であった。主馬佑は長頼に反抗したため、鵜狩りと称して主馬佑を誘き寄せ謀殺した。これを悲しんだ主馬佑の母・津賀は恨みをもって自害し、亡霊となって祟ったという。後に三の丸には鎮魂の為に「お津賀の社」が建立された。長頼は主馬佑の城を拡張し人吉城の基礎を造った。築城の際、三日月型の模様の入った石が出土した。このため、この城の別名を「繊月城」「三日月城」とも言う。
戦国時代になると相良氏は球磨地方を統一する。しかし、家督問題で内訌が生じた後の大永6年(1526年)7月14日、日向真幸院を治める北原氏が率いた大軍(一向宗を率いていたともいわれる)により人吉城は包囲される。相良義滋は策を用いて北原氏を追い返し事なきを得たが、これが相良氏入城後の人吉城が他家に攻められた唯一の出来事となった。
その後、19代当主の相良義陽によって天正年間(1573年 - 1593年)より城の大改修が始められた。途中に度々改修の中断があり、22代頼寛の寛永16年(1639年)漸く近代城郭に生まれ変わった。

(wiki参照)



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歴史館から東側の光景。正面奥の丘陵一帯が人吉城の主城域になりますが、そちらに行く前に「西曲輪」と呼ばれる歴史館周辺の探索をしましょう。

西曲輪は球磨川とその支流である胸川に挟まれた平地で、江戸時代初期には重臣相良清兵衛と息子内蔵助の屋敷をはじめとした上級家臣の屋敷が立ち並び、その後藩の施設も配置されるようになりました。中央に走る「後口馬場」は道幅10mの大きなものであったといいます。



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その後口馬場。
近年復元整備されました。



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現在人吉市役所が建っているあたりもかつての武家屋敷の一角。

市役所脇には下台所跡・犬童市衛門屋敷跡。



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西側、胸川沿いには多門櫓が復元されています。
大手門の北側石塁上にある長櫓で、鍵型の平屋構造。
壁は上部が漆喰大壁、下部が黒塗りの下見板張。
外面には防御のため14面の突き上げ窓が設置されています。



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多門櫓脇、胸川を渡る大手橋との交差部分に位置する大手門跡。
資料によると櫓門形式であった様子。またこの付近には船着場があったという。
川の対岸から見ると復元された櫓や長塀がいい感じに見えます。



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多門櫓から北側に伸びる長塀。
復元された長塀は長さ151mに及びます。
その先、胸川と球磨川の合流点である城域西北角には角櫓が復元されています。



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西外曲輪の相良神社側にある、覆屋付きの遺構。
歴史館内でも説明のあった「井戸のある地下室」、二つのうちの一つ。
ちょうどこのあたりが武家屋敷群の一つ・相良内蔵助屋敷跡になります。

ガラス越しだったので、写真だと光が反射してしまいます。



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続いて道路を挟んで東側のゾーンへ。
かつてはこの石垣の上に長塀が建ち並んでいたといいます。
また、この道路はかつての馬責馬場。
西外曲輪は城下町的な要素が強いですが、こちら側からは主城域に近づいていく気配がします。



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相良神社。
近世には政務を行う役所や藩主の館があったところ。
西外曲輪からは一段高い位置にあり、三面を石垣で囲まれ、東側は主城域の丘陵に接しています。
境内には庭園跡や井戸跡、力石などがあります。
かつての居館入口に架けられていた石橋である御館御門橋は、現在も神社南側入口で健在です。



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(左)神社東側からの登城路ですが、これは当時のものではなさそう。
パンフレットにも「見学用階段」とあります。

(右)石垣直下の階段ではトレーニングをしていると思しき男性が上り下りを繰り返していた。



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階段を上った先は見晴らしの良い平場。
歴史館で入手した図面によると、ここにかつて御津賀社という神社があったようです。
初代相良長頼の入国前の人吉城主であった平氏の代官矢瀬主馬祐を祀る霊社であったとのこと。



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三の丸石垣。



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(左)三の丸虎口か。緩やかな進入路。

(右)三の丸。2棟の塩蔵や長屋・井戸が配置されていましたが、当時から広大な平場が確保されていました。
今は建物は残っていないため、より広い芝生広場になっています。それこそサッカーができるほど。
実際青年たちがサッカーをしていました。部活動にしてはゆるく感じたので同好の集まりかな。

資料によると三の丸は「竹茂かり垣」なる竹を使った垣で防御されていたとあります。
遠くを見ると確かにそれらしき物で囲まれているのですが、縮小された写真では判別できませんか。



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二の丸石垣。

苔むした感じが何とも言えません。



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二の丸へ上がる入口は二つあります。
一つは二の丸北西隅に近いこの場所。
後世に付けられたような感じを受けなくもありませんが、しっかり虎口状の形状も残っています。



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もう一つの二の丸入口である中御門跡。立派な石垣。
こちらが大手道から続くメインの入口。
櫓門形式であり、番所も置かれていたといいます。



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やはり近世城郭、入口はしっかりと枡形になっています。

それにしても、ほんとにいい雰囲気の城ですねえ。



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二の丸。

右側の棒はれっきとした標柱で「二の丸跡」と記されているのですが、経年劣化により読み取りが困難になってきています。
左側奥には比較対象にうってつけの先客の姿が見えます。二の丸の広さが感じ取れるでしょうか。



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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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