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人吉城① ~相良清兵衛屋敷地下室~

八代から九州道で人吉へ。八代方面から周囲を山で囲まれた人吉盆地へ入るには、現在でも高速道以外では球磨川沿いの道を進むしかなく(あとは大通越)、一種の天嶮の地といえます。

100名城に選定されている人吉城
球磨川に架かる水の手橋から対岸を見ると、川沿いに長く石垣が連なる光景が目に入ってきます。
人吉藩は外様2万2千石の小藩ながら、城に対する同好の先人たちの評価は比較的高く、期待が高まります。



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16:20。100名城スタンプ設置場所の人吉城歴史館へ。
入館は16:30までだったので危なかった。
付近には無料駐車場が数か所あり安心です。



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入館料は200円。本日最後の客だったようで、ほぼ貸し切り状態。
さっそく100名城スタンプ押印、ゴム印タイプながら良好。これでこの旅9つ目、トータル83城目。
シャチハタタイプできれいに押せるのが理想ですが、ゴム印タイプのほうが事故率が低く安心な面があります。
(シャチハタタイプは滲みや掠れが生じる危険性が高い。)
他の人の登城記録や芳名帳を閲覧することもできます。関東や関西から来訪している人が多く、意外にも九州近郊からの来訪者は少ない様子。さすがに遠方からここまで来ている人たちは、100名城制覇は後半に差し掛かっている人が多かったです。



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ジオラマ。赤で囲った部分が近世人吉城の山上中核部分。
背後にはさらに広大な中世時代の城域が広がっています。



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中世人吉城イメージ図。
赤丸はジオラマの赤丸部分と大体同じ範囲を示しています(ジオラマとは反対方向からの様子)。
城域の中心部分は南側の丘陵上にあり、堀切や横堀・竪堀などが張り巡らされています。
中世人吉城原城とも呼ばれており、上原城中原城下原城ほか独立性の高い曲輪が連結されて構成されており、群郭式の城郭であったといえます。



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近世人吉城イメージ図。
中世城郭部分の多くは曲輪の形状が残るのみとなり、球磨川沿いの先端丘陵部分のみ近世の山上中核部分として整備されました。そのほか平地部分の発展に力を注いだ様子がうかがえます。

この中世部分を含む人吉城の縄張図は歴史館内で無料配布されているので、城域を探訪する前にぜひ入手しておきましょう。



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繊月石。
人吉城築城時に出土した三日月文様のある霊石。

各種資料が充実していますが、館内の撮影は基本的に禁止ということなので、これ以上の掲載はしません。
映像資料も多く、貸し切り状態だったためじっくりと観賞することができました。
相良氏について知識不足だったので、この歴史館で勉強することができよかったです。



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この歴史館はかつての城下武家屋敷の一つで重臣の相良清兵衛屋敷跡に建設されました。
中庭には屋敷の庭石が展示されています。



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中庭の反対側にある展示室。こちらは撮影禁止でなかったような?
岡本城縄張図、関ヶ原での相良清兵衛の功績、「お下の乱」についての説明などなど。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは相良氏は西軍につき、伏見城の戦いなどで率先して戦ったが、その後、大垣城にあるとき、9月15日の本戦で西軍が大敗したと知って、徳川家臣井伊直政と内通していた頼兄(清兵衛)は、頼房に東軍に寝返るように進言し、同じく内通していた秋月種長・高橋元種兄弟と共に、西軍諸将を謀殺して、相良氏の存続を成し遂げた。これらの功績から頼兄は筆頭家老として国政を任され、人吉藩2万2千石のうち、半分近い8000石を与えられた。

お下の乱 / 御下の乱(おしものらん)は、別名、相良清兵衛事件あるいは田代半兵衛の反とも呼ばれる。2代藩主頼寛は寛永17年(1640年)重臣であり次第に権力を増幅していった相良清兵衛頼兄(犬童頼兄)の専横を、幕府に対し訴え裁可を仰いだ。頼兄は江戸へ召還され小田原藩仮預かりとなった。この間に江戸屋敷より国許への使者として神瀬外記、深水惣左衛門が遣わされた。使いの内容は、頼兄の養子(義子)である田代半兵衛頼昌(犬童半兵衛とも)を引き続き藩士として取り立てる、というものであった。しかし、半兵衛は既に頼兄の処分を知っており、「お下屋敷」と呼ばれる頼兄の屋敷に呼ばれた外記と惣左衛門は半兵衛らに襲われる。惣左衛門は無事に逃げのびるも、外記は捕えられ全ての指を切られた上で殺害された。そして頼兄の一族はお下屋敷に立て籠もり、藩兵がこれを取り囲み戦闘となった。結局、頼兄の一族全員が討ち死に又は自害により121名が死亡した。これがお下の乱と呼ばれる事件である。
頼兄は幕府の裁定により遠流(津軽藩預かり)となり、弘前で明暦元年(1655年)に88歳で客死している。

(ともにwiki参照)



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こちらの展示室の下には、相良清兵衛屋敷の地下室が当時の姿のまま復元されています。
この歴史館のメイン展示といえます。



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広さ6m四方、深さ3m、出入り用の階段は2か所。
このような地下室は人吉城下に二つ発見されており、全国でも類を見ないものとなっています。



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地下室への入口は施錠されていますが、係員さんに申し入れると実際に地下に降りることもできます。
写真撮影可のお墨付きもいただきました。
この写真だと一見登り階段に見えますが、地下へ下る階段を上から写したものです。



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地下室。

「お下の乱絵図」によると、二つの地下室は相良清兵衛屋敷内にあった二階建ての「持仏堂」と、その息子の内蔵助の屋敷内にある「蔵」と書かれた建物の位置にあたるところから発見されています。
二つの地下室の構造や築造年代は酷似しており、ともに「お下の乱」直後に破壊されて埋められています。

床には途中まで石段がついた水深2.3mの方形の大型井戸があります。
井戸底からは刀が出土しました(展示資料にその時の写真あり)。



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この地下室の場所にあった持仏堂は、お下の乱の時に犬童半兵衛一派の隠れ場所となり焼失しています。

なぜ、このような施設を造ったのか。
なぜ、長男内蔵助の屋敷にもあるのか。
なぜ、破壊されたのか。
なぜ、全国でもこの地にしか類例がないのか。

パンフレットには、これらの謎について見学者自身に謎解きをしていただきたい、と記してあります。
行水施設という推測が有力ですが、各自で様々に想像する楽しみがあります。

そろそろ閉館時間の17時が迫ってきたので、名残惜しいですが退出。予想以上に見ごたえありました。



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退出直前、どこかのニャンコ先生みたいなネコさんがいるなと思ったら、まさにそれだった。
アニメ化もされた夏目友人帳のキャラクターです。私はそっち方面についても語ることはできますが、語りだすと城館探訪どころではなくなるのでここでは自重しましょう。

アニメ版第3期では人吉球磨地方が舞台設定のモデルとなっており、ファンによるいわゆる「聖地探訪」も行われています。そのための探訪マップまで作成するとは、うまくタイアップしましたね。



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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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