FC2ブログ

記事一覧

宇土城 ~小西行長が築いた織豊系城郭~

宇土市には中世と近世の二つの宇土城があります。
地図では前者が宇土城跡、後者は宇土城山公園と表記されています。
ここでは多くの城郭サイトの表記方法に倣い、前者を宇土古城、後者を宇土城とします。



P9250495s.jpg P9250496.jpg
まずは近世宇土城から。宇土高校西隣にある城山公園を目指します。
城山入口に二つの宇土城の表示を発見するも、なんと車両通行止め。
この場所にいた現地誘導員のおにいさんに、少し手前にある古城公民館を駐車場所として教えてもらう。



P9250498.jpg P9250500s.jpg
9/24~9/25まで道路工事のため全面通行止。本日平成26年9月25日で完全にドンピシャ。
工事はいくらでもしてもらって構わないけど、そこの日陰になっている公園用の駐車スペースが工事車両に占拠され使えないのがかなり痛い。公民館の駐車場は炎天下で野ざらしなので、また車内温度が50度オーバーになるかと思うと今から気が重い。

立派な説明板があるけど暑いので立ち止まるのは不可。そういうときの常道手段は歩きながらの写真撮影。
行動しながら撮影ができるようになると攻城時間短縮に意外と役立つので、それほど写真にこだわりがない人には結構おすすめのスキルです。


P9250499saa.jpg

その説明板から。
何このキャラクター。



P9250502.jpg
立派な城址碑いただきました。
もう目的は果たしたので、これで帰っちゃおうかな。暑いし。
とりあえず階段上るくらいはしますか。



P9250507.jpg
階段を上ると本丸に出ます。
さすがに広い削平地ですが、城のネームバリュー(小西行長の居城)からすると、意外にも何もないかなという感じも受けます。



P9250506.jpg P9250499abs.jpg
こちらにも説明板があります。往時の想像図を見ると、織豊系の縄張りに加え、武家屋敷や城下町も一体的に結合する、いわゆる「惣構」を形成していたようです。

天正16年(1588年)小西行長は、肥後国宇土郡、益城郡、八代郡あわせて17万5,000石(諸説あり)を所領すると、宇土古城の東にあった高さ約13メートルの城山(宇土市古城町)に城地を移し、新城を築く計画を立てた。しかし、普請に際して天草の国人衆が助力を拒否したことから天草国人一揆が生じたため、実際の普請開始は翌天正17年(1589年)頃からと見られている。
行長の手になる宇土城は、城郭本体だけでなく、城・武家屋敷・城下町が水堀と運河によって一体的に結合されることで「惣構」を形成するという防御的な性格を有していたことが、市内各所の発掘調査によって明らかになりつつある。

(wiki参照)



P9250510.jpg P9250512.jpg
小西行長像。
キリシタン大名で洗礼名はアウグスティヌス(アゴスチノ)。
宇土・益城・八代に天草を加えた24万石の領主。

本丸の東側隅にあるため、西側から本丸に上がった私は本丸の淵を迂回してなるべく日陰を通るようにして到着。それだけ暑く、かつ本丸が広かったということです。こういうことは時間が経ってもよく覚えているものです。



P9250513.jpg
西の空を見つめる行長像。
その眼の先にあるのは出兵した朝鮮か、それともそのはるか先のヨーロッパか。

慶長5年(1600年)7月、上方へ出陣していた行長が西軍(石田方)に呼応すると、加藤清正は徳川家康から8月12日付で肥後・筑後切り取り次第の御内書を取り付ける。9月15日、清正は豊前国の黒田如水応援のため豊後国へ出陣した。しかし、豊後戦線が如水優位になると直ちに軍を反転し、宇土城攻撃に取りかかる。
9月19日に前哨戦である石ノ瀬口の戦闘が始まり、翌20日は城下での戦闘を経て、同日清正が宇土へ到着し、21日には5方向からの惣攻めが開始される。10月2日には三ノ丸まで抜かれ、本丸・二ノ丸の攻防戦に入っているが、10月20日に関ヶ原の戦いでの西軍の敗戦と行長の刑死が城内へ伝えられると、城代小西隼人は10月23日に開城して自刃、宇土城は加藤清正の所有するところとなる。

(wiki参照)

行長の死は当時のヨーロッパで大いに悼まれたという。



P9250516.jpg
東側。堀跡が見えます。
藪になっており上からはよくわかりませんが、本丸東側は石垣が取り囲んでいるようです。

清正は、宇土城を自身の隠居城と定め、おもに主曲輪の改修を行ったが、清正が慶長16年(1611年)に死去すると、翌慶長17年(1612年)、水俣城矢部城とともに破却された。熊本城宇土櫓は、かつては宇土城天守閣を移築したとの説があったが、平成元年の解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、現在は否定されている。
(wiki参照)



P9250519.jpg
本丸北西隅から。
西側に見える墓地はかつての二の丸跡。
本丸と二の丸を隔てる堀跡がかなりの規模であることは、破却後の現状でも感じ取ることができます。

寛永9年(1632年)、2代加藤忠広は徳川家光への謀叛の嫌疑をかけられ改易となり、同年、肥後国は豊前国小倉藩主細川忠利に与えられる。寛永14年(1637年)、島原の乱における原城のような立て篭もりを防ぐため、徳川幕府は西国の廃城に対し再度の破却を命じ、城跡は徹底的な破却を受けた。その後、城地内には造作禁止令が出され、荒蕪地として放置されたため、石垣部材の抜き取りや土採りなどに遭い、城跡の荒廃が進んだ。
正保3年(1646年)に、細川行孝が宇土郡3万石を分封され、宇土藩が成立するが、支藩であったため城は築かれず、現・新小路町に宇土陣屋を設けて、宇土細川11代が治め、明治に至っている。

(wiki参照)



=============================================
所在:熊本県宇土市古城町
評価:★★

本丸部分が公園として整備されている以外は、織豊系城郭としては意外なほど何も残っていません。二度の破却令により徹底的に破壊や転用が行われたのでしょう。本丸南側から東側にかけて石垣が取り巻いていますが、これがいつの時代のものかは不明。本丸西側には当時の残存石垣があるようですが、工事中だったため進入する意欲が失せて見学しませんでした。普通に車で通行できて駐車場に停められれば周囲を一周できただろうに、残念な気持ちの分減点。
=============================================
関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ

プロフィール

KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

フリーエリア

Twitter

スポンサーリンク

カレンダー

10 | 2019/11 | 12
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

メールフォーム

お問い合わせはこちらからどうぞ

名前:
メール:
件名:
本文: