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島原城② ~島原大変肥後迷惑~

続いて2階、郷土史料フロア。



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ここは藩主や島原城関係の文物を展示しているフロア。
武具や甲冑、松平家家宝の神気・神息の太刀など展示。



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島原藩校・済衆館扁額。

島原藩校は寛政5年(1793)の稽古館から始まる。文政4年(1821)医学分野を独立させた済衆館が生まれた。済衆には民衆を助けるという意味がある。



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解剖図。

済衆館で医学を指導していた賀来佐之や御殿医・市川泰朴らがシーボルトに学んだ西洋科学の知識を元に、解剖を実行して記録したもの。



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免許・秘伝書や各種絵図。



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島原城廻之絵図。



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城下模型。
家屋に家臣と思しき所有者の名前が掲示されているのが細かい。



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3階、民俗史料フロア。庶民生活に関する文物が展示。

おすすめは南蛮渡りの「象と京美人」。



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(左)長崎ソロバン。日本の算盤のルーツは長崎であるという。
なぜか国宝「金印」のレプリカも。レプリカなのに純金製。すごいな。

(右)天守模型。



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4階、観光物産コーナー。
とはいっても露骨な観光物産PRをしているわけではなく好感が持てます。

島原工業高校郷土部制作の「つまようじ島原城」なんてのも発見。



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島原大変」之図および「肥後迷惑

1791年(寛政3年)末ごろから、雲仙岳西側で有感地震が多発。震源が徐々に普賢岳に向かって行った。1792年2月10日(寛政4年1月18日)、普賢岳で噴火が始まり、溶岩流や火山ガスの噴出も見られるようになった。溶岩は2か月掛けて2キロメートル、千本木と呼ばれた部落まで流れて止まった。穴迫谷(あなさこたに)と呼ばれる山中の谷を埋めたと言う。1792年4月1日(寛政4年3月1日)から1週間ほど地震が群発し、普賢岳から火が噴き、吹き上げられた石は雨のごとく地面に降り注ぎ、また前に聳える眉岳・天狗岳(708メートル)に落石し、地割れが各所で起こった。 その後、地震は島原の近くに震源を移し、有感地震が続いた。4月21日からは、島原近辺での地震活動が活発になった。
群発地震が収まりかけたかに見えた5月21日の夜、2度の強い地震が起こり、眉山の南側部分が大きく崩れ、3億4000万立方メートルに上る大量の土砂が島原城下を通り有明海へと一気に流れ込んだ。これは日本三大崩れのうち大谷崩れ、稗田山崩れの崩壊土砂量を上回り、この時の死者は約5,000人と言われている。眉山崩壊の原因については、眉山の火山活動によって直接起こったものか、雲仙岳の火山性地震によって誘発されたものであるかは、現在でも定かではない。
山体崩壊で大量の土砂が有明海になだれ込んできた衝撃で10メートル以上の高さの津波が発生し、島原の対岸の肥後天草にも襲いかかった。大量の土砂は海岸線を870メートルも沖に進ませ、島原側が高さ6〜9メートル、肥後側が高さ4〜5メートルの津波であったと言う。肥後の海岸で反射した返し波は島原を再び襲った。津波による死者は島原で約10,000人、対岸の熊本で5,000人を数えると言われている。津波のエネルギーは崩壊した土砂の持っているポテンシャルの1/100から1/1000程度に過ぎないとされるが、ここからも陸上に堆積した土砂の量が甚だ多かったことが判る。
肥後側の津波の遡上高は熊本市の河内、塩屋、近津付近で15〜20メートルに達し、三角町大田尾で最高の22.5メートルに達した。島原側は布津大崎鼻で57メートルを超えたとの記録がある。

(wiki参照)



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噴火中の普賢岳の図。

島原大変肥後迷惑による死者・行方不明者は合計15,000人(うち約3分の1が肥後領側)におよび、有史以来日本最大の火山災害となった。島原地方には今も多くの絵図や古記録が残っている。都司嘉宣、日野貴之の研究によると合計15,000人としているが、熊本県側は5,158人としている。
この時に有明海に流れ込んだ岩塊は、島原市街前面の浅海に岩礁群として残っており、九十九島(つくもじま)と呼ばれている。これは地形学的に言うと「流れ山」と呼ばれる地形である。

(wiki参照)



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最上階、展望所からの眺め。
まずは東側、島原市街。海の向こうには熊本の山々が望めます。



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南側。
海沿いに見える小さな山のような地形が眉山の大崩落により形成された「流れ山」。
いったいどれほどの規模の山体崩壊が起こればこんな地形が誕生するのか・・・

1792年の「島原大変」では、島原城は被害を免れたものの城下町のほとんどが消滅し、有史以来、日本国内で発生した最大の火山災害となっています。



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西側、眉山および普賢岳方面。
山の頂部は厚い雲に覆われてしまっている。
先ほどまで台風の大雨の中にいたことを思えば、ここまで天候が回復したことにむしろ感謝しなければならないか。
雨のおかげで、結果的に1日を通じ暑さをあまり感じずに行動できたことも良かったかも。



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展示資料が非常に豊富で、入場料分の価値は十分あり。
満足して天守を後にしようとしたところ、去り際にこのようなポスター発見。

最近こういう系のイベントはどこに行ってもやっているのでそれほど目新しくはありませんが、中心に描かれている松倉重政って、あれじゃなかったでしたっけ。
ほら、その①でさんざん掲載した、苛烈な悪政を行ったっていう・・・
司馬遼太郎に至っては「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない」とまで言ってますけど。
島原の人的にはそれでも一応郷土の英雄なのかしら。


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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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