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諫早城① ~諫早公園物語開始~

肥前国諫早城。またの名を高城亀城とも。

少禄とはいえ独立大名であった諫早氏の本城ですが、実際見て回った感想では技巧性はそれほど感じられず、地形依存の単純な造りの城です(なお諫早氏は後に城を維持できずに佐賀藩鍋島氏の家老となる)。

先人たちの登城記を見ても、それほど高評価は出されていません。

ただ、結論から先に言うと、私はこの城をかなり楽しむことができました。
その理由は・・・



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この説明板

その昔・・・諫早公園の山は、山城だった!

随所に説明表示も設置されているようです。
先人たちの記録にはそういったものの存在は記されていないので、ごく最近設置されたものでしょう。
近世城郭でもなければ、著名な合戦のあった山城でもないのに、この力の入れ方はかなりのものです。
実際この説明表示がなかったらかなり味気ない探索になっていたと思います。
作成した諫早観光コンベンション協会には拍手を送りたいところです。



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ということで、まずはNo.1の桜馬場から。
大手門の近くに設けられたこの広場は、軍馬の調教や武士の馬術向上のための練習場だったという。
また武士たちの集合の場でもあり、「武者だまり」とも呼ばれていました。

天正15年(1587)初代諫早家・龍造寺家晴が諫早城主となったのち、旧主西郷家の遺臣が再び結集して城を取り返すために夜襲をかけたが、失敗に終わります(西郷一揆)。これに腹を立てた家晴は、後日ここ桜馬場で「祝賀大踊り」を開催し、夜襲を計画した者73人を誘き寄せて捕えたといいます。



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No.2・大手門
本丸へ通じる虎口に設けられた門があったところで、山城の表口。

城と関わりない案内もいろいろあります。そのうちの一つは、国指定天然記念物の諫早市城山暖地性樹叢の説明。こういった樹叢は玖島城でもありましたが、ここでも指定されています。
曰く、この樹叢は「スダジイ-ミミズバイ群集」と呼ばれる照葉樹林で、現在より温暖であった縄文時代前期頃に茂ったとされる暖地性の樹木が自然林として残っているとのこと。ヒゼンマユミの原標本産地がこの場所であることや、山頂部広場のクスノキは県内最大級であることなども説明されています。

このほか胸像やら句碑やらいろいろありますが割愛。



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石段を登っていくと次なる表示発見。

No.3・折坂虎口
攻め登る敵の勢いをなくすために、地形を利用した狭く急な坂と曲がり角の両方を取り入れた場所に設置された虎口。



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もう一段登ると平場に出ます。ここも曲輪の跡。

No.4・東の丸
城兵は、大手門から攻め登る敵をこの場所で待ち受けていた。

ここには大きな銅像が立っていますが掲載は割愛。



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雨は小降りになっていましたが、本丸への石段がさながら排水路のような形になっており、上からはこれまで降った雨が滝のように流れてきます。
水流部分を避けながら登っていくと、鳥居が現れます。これをくぐると山上部分に到着ですが、ここが次なるポイントになります。

No.6・虎口
本丸へ進む最後の出入口。

横矢掛りについて「人の目は顔の正面についているので」云々という説明をしているのは初めて目にしました。
個性的でいいとは思いますが。



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山上部分に出たところ、ありました。県内最大級のクスノキ。
幹回り約12m、樹高約30m、樹齢600~800年。
諫早のシンボルというのも納得の大樹です。



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No.7・高矢倉
山上部分には高矢倉が四方にあったと考えられています。

龍造寺家晴がこの城を手に入れるために攻め込んだとき、城の様子を以下のように述べています。

高城諫早城)の上に四方に高矢倉有りて、数多の矢狭間これあり。麓より上に至りて植木一本もなく、見すかしたる城なり。」

当時の高城は麓から頂上にかけて植木が一本もなく、よく手入れされた山城だった。山城は木が生い茂っていると守りにくく攻めやすいとされた。



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この場所からは現在の市街地を一望できます。
本丸部分からの眺望は望めないので、この場所が眺めを楽しむには一番いいところでしょう。



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クスノキの大木があるこの山上部分が一番広い平場となっています。
ここは公園整備による改変が大きいと感じます。
平場の奥、忠霊塔のあるところが本丸ですが、平場部分との隔絶はあいまいです。



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No.8・本丸(本曲輪)
土塁跡らしきや虎口跡らしきが見受けられます。

南北朝期、伊佐早地方は船越城を拠点した伊佐早家と、宇木城を拠点とした西郷家の二つの勢力に分かれていた。戦国期に西郷家により伊佐早地方は統一され、西郷尚善がこの地に新しく高城を築いた。その後4代目西郷信尚は、全国統一を目前にした豊臣秀吉の参陣命令に従わなかったことにより所領を没収され、替わって龍造寺家晴が諫早に入部し一万石余を領した。江戸期に入り二代目龍造寺は、姓と地名を「諫早」とした。一国一城令が出され高城は廃城となるが、その後も諫早家が明治維新まで諫早地方を治めた。
(説明板参照)


その②
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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