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玖島城② ~嵐の波止場~

二の丸から本丸へ。



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台所口門。立派な石垣が残る。
藩主の住居を俗にお台所と呼び、 その出入口にあった門を台所口門と称したとのこと。

この城は随所に標柱や説明板が設置されており、城館探訪をする身からは非常にありがたいことです。



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本丸内へ。
中央に大村神社が鎮座。



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説明板

本丸の敷地のうち、大村神社本殿のある一帯が旧政庁であり、東半分にある玖島稲荷神社一帯が藩主居館跡ということです。石垣の上には塀をめぐらし、各種狭間や多門櫓が設置されていたが、天守はなかった。



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国指定天然記念物「大村神社のオオムラザクラ

八重桜の一種で大変珍しい品種。神社社殿前にある二本が国の天然記念物に指定されています。
また大村市の市花にもなっています。



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このほか県指定天然記念物の「大村神社のクシマザクラ」や「貝吹石」といったものがあります。
貝吹石には、龍造寺隆信と争ったときに使用され、敵を退けた伝説があるとか。



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虎口門。本丸に入る三つの門のうちの一つ。
標柱が見えるので近づいていくと、城についてのものではなく、日本全国どこにでもある有名な「世界人類が平和でありますように」の標柱。この「世界人類が~」の標柱と、よく山城で見かける地籍調査やらなにやらの杭は、標柱ハンターにとっては幾度もがっかりさせられる代物。一定のレベルを超えた城めぐり界の住人には、似たような経験をお持ちの方も多いことでしょう。



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大村純熈像

肥前大村藩の第12代(最後)の藩主。蘭学に通じ、文武や学問を奨励した。
薩摩藩・長州藩などと共に倒幕の中枢藩の一つとして活躍し、戊辰戦争では東北地方にまで出兵した。この功績により、明治2年(1869年)6月には賞典禄3万石を与えられ、版籍奉還により大村藩知事に任じられた。

(wikiより抜粋)



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こちらは中祖と呼ばれた大村喜前の遺徳碑。

大村純忠の嫡男で、肥前国大村藩初代藩主。ドン・サンチョの洗礼名を持つキリシタンであったが、バテレン追放令を受けて領内から宣教師を追放して、朝鮮出兵以来、領内に禁制を布いた。元和2年(1616年)、迫害を恨んだキリスト教徒によって毒殺された。
(wikiより抜粋)

現地説明板では毒殺とは表記されず、単に「48歳で急逝した」とあるのみ。



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玖島稲荷神社。藩主の居館があったところ。

本丸内に藩主の居館があるっていうのは、ありそうで意外と珍しいのではないかな。



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搦手門。本丸に入る三つの門のうちの一つ。
慶長4年の築城時には大手門であったが、慶長19年の改修で搦手となった。
枡形も屈曲もない簡素な門です。



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搦手門から本丸の外へ。
こちらは本丸北西隅の石垣。



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浜田弥兵衛の碑

城内にはほかにもいくつか碑が立ち並んでいますが割愛。



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玖島崎樹叢

本丸の東側でも説明板を見かけたが、反対側の本丸西側も同様の樹叢が広がっています。


この後本丸西側の空堀を見学中に雨が強くなってきたので、適当なところで切り上げる。
本丸北側のイロハ段(47段あったのでそう呼ばれたと伝わる)を経て、観光センター前の駐車場へ帰還。
そのまま車で一気に城の反対側(三ノ丸方面)へ移動。



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玖島城船役所跡

ここには、江戸時代、大村藩の居城玖島城に付随した船役所があった。船役所は、資料によっては「船廨(ふなげ)」、「帆蔵番人屋敷」などと呼ばれ、明治4年の玖島城の様子を描いた絵図では「海運方」と記されるように様々な呼称があったようである。また、周りには船の建造・修理を行う船作事小屋も設けられていた。大村藩領は大村湾を取り囲むように形成されており、陸上交通手段が未発達であった江戸時代において、船が特に重要な交通手段だった。藩主が長崎に赴く時など、必ずと言っていいほど船で対岸の伊木力や時津に渡っていた。現在、周囲には、藩主の専用船を格納したお船蔵跡や、新蔵波止など海運に関わる史跡が残っているが、この場所にも船着き場の突堤の跡や、海岸の石積み護岸を見ることができる。海に接し、海上交通機能を取り込んだ「海城」としての玖島城の特徴を良く現している。
(説明板参照)



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雨が凄いことになっているが、特徴的な史跡発見。



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大村藩お船蔵跡

この船蔵は、玖島城に付属した施設で、4代藩主大村純長(すみなが)が、元禄年間(1688~1703頃)に築造したものである。 ここには、殿様の使用した御座船を始め、藩の船が格納された。 江戸時代、船は重要な交通手段だったが、領地が海を取り囲む形の大村藩にとっては特に重要な乗り物だった。 藩主が長崎をはじめ、領内各地に赴く時には、船が多く使われた。 この他、兵員輸送や各種物資の運搬にも使われるなど、大いに活用された。したがって、船蔵は、藩にとって重要な藩船を格納する場所であり軍事面の備えのみでなく、交通産業面などでも藩を支えた施設だった。 この船蔵は、もとは外浦小路(ほかうらこうじ)の入口にあったことが記録に出ており、元禄年間に板敷(いたじき)浦(現在の場所)に移ったとされている。 また、板敷櫓下の発掘調査で船蔵跡が発見されている。 このお船蔵の後ろには、米蔵や硝煙小屋があり、海を挟んで正面には船役所があった。 当時は、風雨を避けるため、石垣の上に柱を建て、屋根で覆って いたと思われ、柱穴の跡が石垣に残っている。旧城郭の一部として、古い石組と船渠(ドッグ)など昔の面影をそのまま残しており、このような船蔵遺構の例は数少なく、海城としての玖島城の特徴をよく現している。 海と密接な関係のあった大村藩の性格を伝える極めて重要な文化財として県指定史跡となっている。

(説明板参照)



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新蔵波止

貞享3年(1686)、幕府が官米三千石を筑前から運んで預けた時、二棟の新蔵を建て、この波止を築いた。以後も藩船などの発着に利用した。


風が・・・風が強いぞ・・・



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ウワーイ

この傘はここで再起不能となりました。
台風恐るべし。



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ものすごく海面の水位が上がってる気がするんだけれども。
道路冠水しちゃうよ。



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最後になってしまったが、板敷櫓に到着。石垣の勾配が美しい。
手前の石垣が非常に小ぶりな石を積み上げて築かれていることが目につきます。



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所在:長崎県大村市玖島1丁目
評価:★★★☆

2万7千石程度の小藩の割には立派な石垣を備え、縄張りも面白く、加えて海城の特徴的な遺構が多く残っていることが高ポイント。傘をおしゃかにされたことも印象深いです。
後から知ったことですが、板敷櫓は内部に入ることができた模様です。もったいないことをしました。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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