三城城 ~三城七騎籠~
- 2015/01/31
- 00:00
三城城(さんじょうじょう)は大村市の中心部近く、JR大村線の山側にある。東の多良山系から続く丘陵の末端部に造られた平山城で、南の本堂川を堀代わりとしている。
縄張りは本丸、二の郭、三の郭の三つの主要な曲輪が深く掘られた横堀(空堀)で分けられており、城名はこの縄張りに由来するものといわれる。
(wiki参照)

三城城は地図によっては記載がないことも多いので、その場合は長崎県忠霊塔を目指しましょう。

富松神社。この神社背後を取り囲む台地上に城が築かれています。
この場所が城の大手口であったとも考えられています。
神社用の無料駐車場もあります。ここから登っていくのが本道ですが、台風による雨も強くなりもっと楽できるルートを探したところ、右手に忠霊塔に向かう道路が延びているのを発見。

道路終点にわずかな駐車スペースがあります。
ここでこの忠霊塔の管理人らしき人に遭遇しました(階段上で傘を差してこちらをうかがっている人物)。
この人は私のプリウス号の高崎ナンバーを見て、「群馬から来たのですね。」と声をかけてきました。
(大野城での無知なねーちゃんの例もあったので、この時私はこの人を教養豊かな人物だと感じたものですが、冷静に考えればその程度は小学生レベルの知識のはずである。47都道府県の都道府県庁所在地なども小学校で習うものだが、それすらできない成人がわんさかいるこの国って一体。私の職場でも小学校知識が怪しい人間がいそうだ・・・)
そしてこちらが何も言わないのに、ここには城に関する説明板はない、城址碑はちょっと見えにくい場所にある、といったことまで語りだしてくれました。ヲイヲイ、なぜこちらが求めているものがわかるのか。心を読めるのですか。
少しお話をして納得。私と同好の先人たちがすでに何人もこの場所に登城しており、この管理人らしきさんも年に1~2回くらい実際にそういった人々と遭遇したりしているのだという。また忠霊塔目当てにやってくる県外ナンバーの車というのはほぼないということなので、ナンバーを見た時点で城目当てだとわかるんだそうな。そういった人たちは説明板を探したりしたことが多かったようで、先ほどの先制説明につながったようです。
そのほかこれまでに大阪や金沢(もしくは神奈川)から来た人もいたとか話してくれました。さすがに群馬からは初だったようですけれどね。
ちなみにここに写っている看板は城に関する説明板ではなく、忠霊塔参拝の注意事項です(笑)

管理人らしきさんと別れ、探索再開。
忠霊塔のある広大な平場が曲輪Ⅰ(本丸)。城主大村純忠の屋敷があったという。
日本初のキリシタン大名として有名な18代大村純忠が、永禄7年(1564年)に完成させました。子の喜前(よしあき)が玖島城へ移る慶長4年(1599年)まで、大村氏の居城でした。多良山系から延びる尾根の先端を利用したこの城は、石垣がなく、堀や土塁で守られた中世の特徴を持っています。
(「大村観光ナビ」参照)

忠霊塔。なかなか珍しい形をしています。
この裏側に長大な横堀があり、三つの主要な曲輪がこの堀により分断されています。
堀底にも降りられそうな感じでしたが、台風の日にそんなことをするのはアホというか、もはや狂人であろう・・・
理性を働かせて撤収(でも雨足が弱まってきたな)。

参道脇に城址碑発見!
確かにちょっと見えにくい場所にあったが、城址碑好きの人なら見落としはしないでしょう。

忠霊塔のある平場から一段下の平場。
普通の城郭ならここが二郭か、少なくとも本丸下の帯曲輪といったところになりそうですが、この平場を独立の郭としている情報は特に見当たりません。
この城には一つ有名なエピソードがあります。
元亀3年(1572年)、大村純忠は武雄の後藤氏、諫早の西郷氏、平戸の松浦氏の総勢1,500の軍勢に急襲包囲されます。純忠は譜代七名の家臣(大村純盛・朝長純盛・朝長純基・今道純近・宮原純房・藤崎純久・渡辺純綱)とともに三城城に籠り、落城寸前になるもこれを防ぎ、包囲を解かせました。大村家で後年「三城七騎籠」と称されるエピソードです。
実際この城の城域は広いうえに三つに分散されているので、わずかな手勢でどのように守りえることができたのか不思議なところです。もちろん守備側は7人しかいなかったわけではなく、ほかにも従者や家族などがいたので籠城者は80人ほど(※女子供含めて)であったとたといいますが、それでも守るには全く足りない人数です。
城外にいた旧臣富永又助が西郷勢(諌早勢)を撹乱して入城し、その後、加勢が入城したので包囲を続けることができず撤収したというが・・・その前に一気に力攻めしちゃえば落とせましたね、間違いなく。
思うに力攻めするまでもなく、圧倒的戦力差で攻囲すれば降伏あるいは自刃すると考えたのでしょうね。実際そうなりかけたわけですし。

少し場所を移して、こちら大村駅前のロータリー。
先ほどの管理人(らしき)さんとの話の中で、駅前の観光看板に城についての記載があるという情報をいただいたので、急遽立ち寄ってみました。

はい、確かにありました。
正直わざわざここまで来なくても良かったような内容でしたが、せっかく教えてもらったことを無駄にはしたくありませんでした。
=============================================
所在:長崎県大村市三城町
評価:★★
主郭には遺構はほとんどありませんが、主郭周りの堀は大きな見どころ。今回見ることはできませんでしたが、三郭にあたる三城神社周辺には特に土塁が残っているようです。それにしても、各種HPを閲覧すると二郭側に城についての立派な説明板(縄張図付き)があるらしいのですが、あの管理人らしき人はそんなこと一言も教えてくれなかったなあ。知らないはずはないのだろうから、駅前の観光看板でなくそっちの方を教えてもらいたかったな。
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縄張りは本丸、二の郭、三の郭の三つの主要な曲輪が深く掘られた横堀(空堀)で分けられており、城名はこの縄張りに由来するものといわれる。
(wiki参照)

三城城は地図によっては記載がないことも多いので、その場合は長崎県忠霊塔を目指しましょう。

富松神社。この神社背後を取り囲む台地上に城が築かれています。
この場所が城の大手口であったとも考えられています。
神社用の無料駐車場もあります。ここから登っていくのが本道ですが、台風による雨も強くなりもっと楽できるルートを探したところ、右手に忠霊塔に向かう道路が延びているのを発見。

道路終点にわずかな駐車スペースがあります。
ここでこの忠霊塔の管理人らしき人に遭遇しました(階段上で傘を差してこちらをうかがっている人物)。
この人は私のプリウス号の高崎ナンバーを見て、「群馬から来たのですね。」と声をかけてきました。
(大野城での無知なねーちゃんの例もあったので、この時私はこの人を教養豊かな人物だと感じたものですが、冷静に考えればその程度は小学生レベルの知識のはずである。47都道府県の都道府県庁所在地なども小学校で習うものだが、それすらできない成人がわんさかいるこの国って一体。私の職場でも小学校知識が怪しい人間がいそうだ・・・)
そしてこちらが何も言わないのに、ここには城に関する説明板はない、城址碑はちょっと見えにくい場所にある、といったことまで語りだしてくれました。ヲイヲイ、なぜこちらが求めているものがわかるのか。心を読めるのですか。
少しお話をして納得。私と同好の先人たちがすでに何人もこの場所に登城しており、この管理人らしきさんも年に1~2回くらい実際にそういった人々と遭遇したりしているのだという。また忠霊塔目当てにやってくる県外ナンバーの車というのはほぼないということなので、ナンバーを見た時点で城目当てだとわかるんだそうな。そういった人たちは説明板を探したりしたことが多かったようで、先ほどの先制説明につながったようです。
そのほかこれまでに大阪や金沢(もしくは神奈川)から来た人もいたとか話してくれました。さすがに群馬からは初だったようですけれどね。
ちなみにここに写っている看板は城に関する説明板ではなく、忠霊塔参拝の注意事項です(笑)

管理人らしきさんと別れ、探索再開。
忠霊塔のある広大な平場が曲輪Ⅰ(本丸)。城主大村純忠の屋敷があったという。
日本初のキリシタン大名として有名な18代大村純忠が、永禄7年(1564年)に完成させました。子の喜前(よしあき)が玖島城へ移る慶長4年(1599年)まで、大村氏の居城でした。多良山系から延びる尾根の先端を利用したこの城は、石垣がなく、堀や土塁で守られた中世の特徴を持っています。
(「大村観光ナビ」参照)

忠霊塔。なかなか珍しい形をしています。
この裏側に長大な横堀があり、三つの主要な曲輪がこの堀により分断されています。
堀底にも降りられそうな感じでしたが、台風の日にそんなことをするのはアホというか、もはや狂人であろう・・・
理性を働かせて撤収(でも雨足が弱まってきたな)。

参道脇に城址碑発見!
確かにちょっと見えにくい場所にあったが、城址碑好きの人なら見落としはしないでしょう。

忠霊塔のある平場から一段下の平場。
普通の城郭ならここが二郭か、少なくとも本丸下の帯曲輪といったところになりそうですが、この平場を独立の郭としている情報は特に見当たりません。
この城には一つ有名なエピソードがあります。
元亀3年(1572年)、大村純忠は武雄の後藤氏、諫早の西郷氏、平戸の松浦氏の総勢1,500の軍勢に急襲包囲されます。純忠は譜代七名の家臣(大村純盛・朝長純盛・朝長純基・今道純近・宮原純房・藤崎純久・渡辺純綱)とともに三城城に籠り、落城寸前になるもこれを防ぎ、包囲を解かせました。大村家で後年「三城七騎籠」と称されるエピソードです。
実際この城の城域は広いうえに三つに分散されているので、わずかな手勢でどのように守りえることができたのか不思議なところです。もちろん守備側は7人しかいなかったわけではなく、ほかにも従者や家族などがいたので籠城者は80人ほど(※女子供含めて)であったとたといいますが、それでも守るには全く足りない人数です。
城外にいた旧臣富永又助が西郷勢(諌早勢)を撹乱して入城し、その後、加勢が入城したので包囲を続けることができず撤収したというが・・・その前に一気に力攻めしちゃえば落とせましたね、間違いなく。
思うに力攻めするまでもなく、圧倒的戦力差で攻囲すれば降伏あるいは自刃すると考えたのでしょうね。実際そうなりかけたわけですし。


少し場所を移して、こちら大村駅前のロータリー。
先ほどの管理人(らしき)さんとの話の中で、駅前の観光看板に城についての記載があるという情報をいただいたので、急遽立ち寄ってみました。


はい、確かにありました。
正直わざわざここまで来なくても良かったような内容でしたが、せっかく教えてもらったことを無駄にはしたくありませんでした。
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所在:長崎県大村市三城町
評価:★★
主郭には遺構はほとんどありませんが、主郭周りの堀は大きな見どころ。今回見ることはできませんでしたが、三郭にあたる三城神社周辺には特に土塁が残っているようです。それにしても、各種HPを閲覧すると二郭側に城についての立派な説明板(縄張図付き)があるらしいのですが、あの管理人らしき人はそんなこと一言も教えてくれなかったなあ。知らないはずはないのだろうから、駅前の観光看板でなくそっちの方を教えてもらいたかったな。
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