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平戸城① ~山鹿流の築城~

名護屋での陣城めぐりの最後、宇喜多秀家陣を立ったのが15:30。
この時点で本日の平戸城の開館時間までに辿り着くのはもはや不可能に思われたが。

ナビは最短時間で到達できる経路として、いったん唐津市街へ出て、そこからR202経由の道を示しています。予想到着時間は18:20。
ここで私はナビの指示を無視しR204(玄海町側)からの強行を敢行。玄海原発を横目に道中ショートカットを駆使することで、ナビの予想到着時間がどんどん前倒しになっていきます。伊万里湾大橋を通過することでさらに大幅に時間短縮。
ナビは基本主要道路しか検索しないので、常に自分の頭で経路を考えないとこういった走行はできません。
初訪遠隔地でこういう走り方をできる人は、ナビ縛りの現代人にはもはや少ないんでしょうね。



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17:02、到着。ショートカットを駆使したとはいえ時間短縮しすぎだろう、と訝しむ方のために念のために言っておくと、別に時速ぬわわkmで走行していたわけではありません。ほぼすべての区間で恐ろしく道が空いており、ノンストップ走行ができたことが大きい。走行の一番の妨げとなるのはトロイ車や無用な信号なので、そういったものがほぼ皆無であれば多少距離があっても何とかなるという好例となってます。

駐車場所はテニスコート脇の駐車場。無料で止められる駐車場は周辺にいくつかあり、後に確認したところ城内の護国神社傍に停めることもできるようです。ただそこに行くには裏側までぐるりと車を走らせなければならず、天守へ最短で向かうにはこの場所か、あるいはもう一つ先にある北虎口門下の駐車場が適していると思われます。



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奇跡的な速さで到着できたとはいえ、17時を回っているのでもう閉館時間かもしれません。ただ仮にそうだとしても、この時間なら100名城スタンプだけでも押させてもらえる公算は高いと踏んでいました。数分以内ならまだ事務員さんが中に残っているはずだから・・・
ここから城へのルートは大手口経由の正規の経路ではなく、斜面に階段を取り付けてショートカットしたもの。
櫓の姿(乾櫓)も見えるが、ここではすべて後回しにしてスタンプ設置場所の券売所へダッシュ。



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まだ開館時間中でした。無事受付で100名城スタンプを押印、良好。この旅6つ目。
通常の記念スタンプもあるので忘れずに押印。
「中に入りますか?ただし五時半までですけど・・・」と受付の女性に言われ、一瞬悩むも、25分あればそこそこ見ることができるので入ってみることに。
おっと、入館料510円とな。思いのほか高いぞ。



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時間がないので天守へ猛ダッシュ。
ちょっと狸櫓へ立ち寄ったりもしたけど、そのあたりは後記。
枡形空間を抜けると・・・



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唐突に天守。券売所から1分未満で到達できます。
天守1階にて入館券のチェック。ここにも100名城スタンプがありますが、かなり乱雑に試し押しがされているようです。実際に押印はしていないのでスタンプ状態は不明。

展示物の一部を紹介しましょう。



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「鐶頭太刀」
神功皇后の朝鮮出兵当時の武将の刀。
柄頭を環状にまるめ、水牛の角の鍔、竹を馬革で包んだ鞘を持つ鉄製直刀。
(国指定重要文化財)



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壁一面にびっちら書き並べられているのは「松浦家世伝脉属譜」。
嵯峨天皇からずっと続いていますよってなことを書き記したもの。
拡大した物が右側。これでも見えないですって?



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「英国船平戸島測量海図(部分)」
万延元年(1860)の英国船の測量データを基に作られたもの。国内では桜田門外の変が起きた年。
中央から遠く離れた地とはいえ、日本国内の事情に関係なく日本沿岸の測量を好きなように行っていたということは、この当時の日本がいかに西欧列強に対し無力であったかということを示しています。
この図からは平戸城の位置や南竜岬の名称も確認できます。



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よくある武具のほかに、このあたり特有のものとしてキリシタン関連の展示もあります。
「メンチョロ様」「カセカケ」「ロザリオ」その他もろもろ。
メンチョロ様の逸話はチェックしておきましょう。



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再び壁一面の細かい一覧は平戸藩の職制について。いわゆる組織機構図。
組織人ならこういったものに多かれ少なかれ興味を示すものでしょう。
奉行・家老・城代への道は果てしなく遠い。

右は全国の藩札。藩札とは江戸時代に諸藩が発行した兌換紙幣のこと。
ちなみにここにあるのは平戸藩旧家臣の沖氏のコレクション。いつの時代にもコレクターはいるものです。



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(左)日の岳城の焼失と平戸城の再築
日の岳城日之嶽城)は平戸城の前身の城。書き写すのが面倒なのでwikiから転載。

下松浦党の棟梁である松浦鎮信(法印)は、豊臣秀吉の九州平定に加わり松浦郡と壱岐の所領を安堵された。文禄・慶長の役の後、慶長4年(1599年)現在の城地である日之嶽に最初の築城を開始した(現・平戸市岩の上町)。しかし、完成も間近となった慶長18年(1613年)自ら火を放ち城を破却した。理由としては、豊臣氏と親交が厚かったことによる江戸幕府の嫌疑から逃れるためとも、最愛の嗣子、久信の死によるものともいわれている。
鎮信は、平戸港を挟んだ北側に「中の館」と呼ばれる居館を構え、平戸藩の藩庁とした(現・平戸市鏡川町)。ここには明治時代に松浦氏の私邸が築かれた。現在は松浦史料博物館となっている。
元禄15年(1702年)4代藩主松浦鎮信(天祥)は幕府に築城を願い出て、翌年の元禄16年(1703年)許可された。江戸時代中期に築城が裁可されたのは異例である。これは徳川家との姻戚関係と東シナ海警備の必要性によるものと言われる。
鎮信(天祥)は山鹿素行の弟子であり、素行とともに全国を歩き資料集めを行い山鹿流軍学に基づく縄張りがなされた。素行を平戸に迎えたいと希望したが叶わず、実子の山鹿高基・義昌の兄弟が藩士として迎えられた。実際の築城指導は山鹿義昌によってなされた。
5代藩主松浦棟によって元禄17年(1704年)2月に着工され、宝永4年(1707年)にほぼ完成した。天守は上げられず、二の丸に建てた3重3階の乾櫓をその代用としていた。

(wiki参照)

(右)山鹿流と吉田松陰
今年の大河でも話が出た松陰の平戸遊学についての記述。松陰は平戸で山鹿万介の門下になり、藩臣葉山佐内に従学し『伝習録』の中の「示弟立志説」などに感銘を受けたことが記されています。もっともこの時期の松陰(寅次郎)は、すでに山鹿流兵学が時代遅れであることを痛感してもいるのです。



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(左)日の岳城遺構図 
平戸城日の岳城の遺構を巧みに利用しながら、新たに策定された縄張りで築城された。

(右)『日本誌』の中に挿入された日の岳城
オランダ人宣教師による想像図。全体的に中国風にも西洋風にも見て取れる。



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平戸城ジオラマ。イイですねこういった展示があるのは。
ほかの資料も全体的に価値のあるものが多く、高い入館料とるだけのことはあります。
よくあるしょうもない展示(陶器類だとか全国の天守のある城写真だとか)で内容を薄めていないことも好印象(もしかしたらあったかもしれないが、目に入っていない)。



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再築亀岡城図。亀岡城平戸城の別名。

ちなみに上にもあるようにこの城は再建時に山鹿流軍学に沿って縄張りがなされたのですが、平城の赤穂城と並んで、平山城では唯一の山鹿流による城郭であるとのことです。



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最上階に出ました。


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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。毎日欠かさず生野菜摂取中。
© 2010 城館探訪記

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