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引間城 ~北谷遺跡~

旧群馬町の城館・その②

群馬県群馬郡群馬町。ネタとも思える自治体名も、現在は高崎市と合併して消滅してしまいました。
この旧群馬町ですが、名物は何かと問われると、県内トップクラスに何も思い浮かばないところです(失礼!)。
しかしこの地一帯は、県名が成立するはるか以前から郡名として「群馬(くるま)」の名を冠していたことからもわかる通り、古来から上野国の中心とみなされていたところです。
その証拠にこの地には県内有数の古墳群の一つである保渡田古墳群が存在し、上野国分寺も設置されました。

ちなみに「その②」からスタートしていますが、「その①」は既に掲載済みの金古城ということで。

さて今回の引間城についてですが、訪問時はもちろん現在でもネット上での詳細情報はほとんどなし。
こういった城館を探訪するのが自分の原点です。

大系によると長野信業による築城とされ、蒼海城攻めの対城と考えられています。



P2120008.jpg
文化財情報システムに記載されている該当地。r25高崎渋川バイパス冷水信号東側です。
城域と重なるように、このあたり一帯は北谷遺跡(国指定史跡)に指定されています。

古墳時代5世紀末ごろの大規模な豪族居館跡である。約3㎞南南西にある三ッ寺Ⅰ遺跡(史跡保渡田古墳群に葬られた首長の居館とされる)とほぼ設計図を共有する。南を染谷川、北を弁天谷に挟まれた幅100mの台地を横断する2条の堀で掘り割り、その内側に厚さ1mの盛土を施して居館本体を造成している。
(文化財情報システムより)

図らずも上の写真はシステムにある写真とほぼ同じアングルのものとなりました。



P2120009.jpg
東側から。

ネット上では引間城に関する情報はほとんどないものの、北谷遺跡に関する情報はいろいろ出てきました。

遺跡周辺の地形をみると、南東方向に並走する谷地及び河川にはさまれた微高地であることがわかる。さらに、これらをつなぐように、南北方向に幅約30m~40mの帯状の低地が2本並行するのが読み取れる。これら低地に囲まれる80m四方ほどの敷地はあたかも台形の山状になっている。この様子が、周囲を堀に囲まれた戦国時代の城を紡彿とさせるため「引間城」と呼ばれていた。今回の調査で、このうち西側の低地が、人工の堀で、しかも古墳時代のものであることが確かめられた。さらに巨大な「台形の山」は、上面に盛土がなされ、また周囲に石積みがめぐる可能性が強くなった。同種の遺跡は、現在のところ、古墳時代豪族居館として著名な三ツ寺Ⅰ遺跡以外に無い。このことから、北谷遺跡は全国的にも優れた内容をもつ古墳時代豪族居館であると堆定されるのである。
参照サイト

この文章では、引間城はいわゆる戦国期城郭ではないということになっていますね。



P2120010.jpg
館跡とされる高台との境。正直浜川館あたりよりよっぽど大規模。

古代豪族の居館跡を戦国期に改修して城館として用いたと感じられるのですが、仮に戦国期に用いられてなくとも自分の中では居館も探訪対象なので全く問題なし。



P2120015.jpg
最後に、北側からの全景。



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所在:群馬県高崎市引間町
評価:

久しぶりのため通常更新の仕方を忘れてしまっていたKDです。まずは予告してあった旧群馬町の城館の在庫を潰していこうと思います。
例によって表示物はありませんが、同じ場所が国指定史跡ということに敬意を表してワンランクアップ(そちらの表示も皆無なのはどうかと思うが)。表示物があれば二つ星相当だったかもしれません。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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