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鷹留城② ~名城箕輪と一心同体~

弘治三(1557)年以降、武田晴信(信玄)による西上州侵攻が度々繰り返されたが、箕輪城主・長野業政は鷹留城をはじめとした支城網を駆使して、都度これを撃退している。業政は永禄四(1561)年頃には死去し、その後を業盛が嗣いだ。

永禄四(1561)年、信玄は国峰城を攻略、松井田城にも経略を仕掛けた。永禄六(1563)年、和田城主・和田業繁が武田に寝返り、十二月までに甘楽・多野地方を手中に収めて倉賀野城に攻めかかったが落城しなかった。箕輪城の城兵は板鼻、若田ヶ原などでこれを迎え撃った。翌永禄七(1564)年には松井田城安中城も陥落、永禄八(1565)年には倉賀野城も落城し箕輪城は孤立した。

永禄九(1566)年九月、信玄は二万の大軍で侵攻、雉ヶ尾峠を越えた那波無理之助宗安が高浜砦を急襲、一時はこれを奪取したが箕輪城から救援に向かった安藤九郎左衛門勝通、青柳金王らによって奪回した。しかし武田方の小宮山らが里見城雉郷城を陥とし、箕輪城鷹留城の連絡を分断した。鷹留城将の長野業通は弟・業勝、業固らをはじめ数百の手勢で迎撃、武田軍の小幡信貞らの一隊を一時は烏川南岸に押し戻すなど善戦したが、業勝は討ち死にした。翌日、業通、業固は山県昌景隊に突入したが、武田方の内藤昌豊、馬場信房隊に囲まれて、長野方の利根木隊の救援で辛うじて囲みを突破、鷹留城に戻ろうとした。しかし、このとき城内の内応者、男蟹谷直光らによって鷹留城内に火が放たれ、業通らはやむを得ず吾妻方面へと落ち延びて、鷹留城は落城した。箕輪城は九月二十九日に落城し、城主の業盛は箕輪城内の御前曲輪の持仏堂で自刃した。



以上、埋もれた古城より。それとタイトルも。



P1190122.jpg
北側から城内へ入ったところ。
両側に高い城塁がある・・・堀底道です。
城の構造を知らない攻城兵がやみくもに突入すると、この時の自分のように堀底に誘い込まれて両側から狙い撃ちされることでしょう。

左手の塁壁の上に何か設置されているのが見えたので登ってみます。



P1190123.jpg
急な斜面を登り見つけたのはこのような祠。
ただの石祠にしてはしっかりした作りで、ワンカップが供えられていました。
キツネの像が並べられていたので稲荷社でしょうか。

大系の縄張図では、主郭の北側の郭・鳥居マークが描かれているところです。



P1190124.jpg
両側は急峻で、うっかり道を踏み外すと大惨事になります。

この写真はちょっとわざとらしいですね(笑)



P1190128.jpg
堀と土塁がうまく融合しています。

現在は大系の縄張図を確認しながら記事を書いているので「この写真はこの場所だ」というのがだいたいわかるのですが、この時は全体の構造を把握するのに苦労しました。
というか把握しきれてなかったか。



P1190129.jpg
とりあえず一番高い塁壁の上が主郭だろうと思い、そこを目指す(正解)。



P1190130.jpg
主郭への登り口。
しっかりした階段があるものの、あまり手入れはされていなさそう。



P1190131.jpg
到着。



P1190132.jpg
城址碑に説明板。
やはりこれほどの城だときちんと設置されていますね。

並郭式の縄張りで、規模は南北430m・東西300m。
最後の城主は長野業道で、長野氏四代七十余年の居城であったとのこと。



P1190134.jpg
こんな碑も。



P1190135.jpg
何とも言えぬ趣を感じます。



P1190136.jpg
主郭西南側から。
大規模な堀切の先に、別の郭が見えます。



P1190137.jpg
再び堀底に降りて、主郭塁壁。
急峻です。


その③

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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