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鷹留城③ ~長野氏累代が眠る~

その②

鷹留城、ようやく完結編。
丸一年間が空いてしまったため、もう一度沿革掲載。

永禄4(1561)年、名将業政も老齢には勝てずに没した。業政は「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし」と遺言したと伝わっている。
同年、越後の上杉謙信が越山して関東に進出し、関東に残る上杉方諸将を糾合して北条氏の本拠、小田原城を攻撃したが、長野氏からは業政の嫡子業盛が参加している。
永禄6(1563)年、武田信玄は和田城の和田業繁を調略して寝返らせると、倉賀野城を攻城している。この時は武田軍は倉賀野城を攻め取る事はできなかった。
永禄7(1564)年、武田軍はまたも西上野に進出、松井田城安中城が遂に落城した。
永禄8(1565)年、倉賀野城も陥落、西上野においての上杉方の拠点は箕輪城を中心とする長野氏の城砦のみとなってしまった。
永禄9(1566)年、信玄は自ら二万の軍勢を率いて西上野に侵攻、長野氏の城砦群の攻略を開始した。
緒戦で高浜砦を攻略されたが、箕輪城からの援軍が再度高浜砦を奪回し気勢を上げた。
その一方で武田方の小宮山昌友が里見城雉郷城を攻略し、箕輪城鷹留城の連絡を分断した。
鷹留城の城将は業盛の従兄弟の長野業通であった。業通は数百の手勢で鷹留城に籠城したが、衆寡敵せず鷹留城は落城、業通の弟業勝は討死し、業通は吾妻に落ちていった。
同年9月、長野業盛は城を打って出て若田ヶ原で武田軍を迎撃したが、戦力に勝る武田軍の攻撃に善戦虚しく敗退し、箕輪城に籠城した。

<参照サイト:帝國博物学協会



P1190139.jpg
前回その②の最後から2番目の写真に写っている階段を登ると、立派な墓石が。
「故清水一郎之墓」と刻まれています。

この時はなんでこんなところに一つだけお墓があるのかさっぱりでしたが、後日箕郷図書館で閲覧した「鷹留城史」に、この清水一郎氏についての記述がありました。
清水氏は昭和14年に中世古城鷹留城を買収。入手後は史跡としての保全を図り、戦歿者の慰霊碑を建てその霊を弔い、全山を城址公園として一般に開放、独力で管理に努めたという人です。

縄張図では2郭となっているこの地にお墓を造るとは、本当にこの城を愛していたんでしょうね。
ちなみに元群馬県知事の清水一郎氏は同姓同名の別人。



P1190140.jpg
二郭から見た本郭塁壁。



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堀底から見た本郭塁壁。
大迫力。



P1190144.jpg
本郭と二郭の間の大堀切。
この土木量の多さには圧倒させられます。



P1190146.jpg
石積みも見られますが、これは昭和初期の整備時のものでしょう。



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塁壁を登っていく石段に遭遇。
縄張図によるとこの石段を登っていくと本郭下に出ます。



P1190149.jpg
主要部分はもう見たので逆方向へ下っていきます。
上の写真の階段部分を遠目から見た写真がこれ。
こちらは城の東面にあたり、数段の腰郭が設置されています。



P1190151.jpg
数段の腰郭の中段あたりを横断するように付けられた通路。
道はある程度の手入れはされていますが、城に関する表示物が全くないのがもったいないところ。
城域が広いため、現在地を示す案内板でもあればとても便利なのですが。



P1190152.jpg
鬱蒼とした森林の中を歩く。
こんなに歩いて車を停めたスタート地点に戻れるのだろうかと不安になりかけたころ、目の前が開けそうな雰囲気。



P1190156.jpg
開けた。明るいところに出ると気分も回復します。
大系の図によると、城域の最南端部分にあたります。

そのまま道なりに進み、最初の大手口に出ました。無事一周成功。



P1190154.jpg
付近にあった碑。その①でも述べたように、この城は本郭以外には城に関する表示物はない代わりにやたらと歌碑の類は充実しています。

七曲り 城の迷路や 蝉時雨

確かに縄張図も持たずに城内に侵入すると、迷路に入ったかのような感覚が生じます。



P1200074.jpg
さて、鷹留城を訪れたのなら、もう一カ所訪問しておきたいところがあります。
鷹留城下にある長野氏累代の菩提寺、長年寺です。



P1200077.jpg
さすがに由緒ある古刹といった雰囲気。



P1200088.jpg P1200087.jpg
なんだか面白そうなものもありますが、深くは追求せず。



P1190160.jpg
長野氏累代の墓所は、高台中腹のあたりにあります。



P1200082.jpg
こちらが長野氏の墓所。
中央が初代鷹留城主にして長年寺開基・長野業尚の墓。
左右に三基づつ塁代の墓が並びます。



P1200084.jpg
長野業政の墓もありますが、最後の城主・業盛の墓はここにはありません。
(参照:元井出館



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所在:群馬県高崎市下室田町
評価:★★★★ 50選に選定

旧榛名町の城館の中では一番初めに訪問した城ながら、記事にするのは一番最後になりました。今でこそ城郭大系の縄張図と写真を照らし合わせてだいたいどういうルートで巡ったかは判明しますが、縄張図も何も持っていないこの時点では手探りの要素が強かった記憶があります。
近年は縄張図を持っての探索が多くなったため現在位置が不祥になることは少ないのですが、反面、初期の攻城時に感じていたワクワク感と焦燥感が入り混じった何とも言えない気持ちを味わうことも少なくなってきた気がします。
ともあれ、旧榛名町編を締めるにふさわしい見事な中世城郭でした。
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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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