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長野原古戦場

柳沢城から長野原城へ向かう途中、右手の神社に「長野原合戦」と書かれた碑があったような気がしたので急遽立ち寄り。





KDの城館探訪記

立ち寄ったのは諏訪神社。


R145旧道をJR長野原草津口駅側から西へ進み、長野原町役場の手前にあります。





KDの城館探訪記

丸岩城で負傷した状態のままだったので(笑)、ここの手水で負傷個所の処置を行いました。

完全復活。




KDの城館探訪記

ありました。「長野原合戦之地」の碑。道路側から見えやすいように敷地の外側いっぱいに建てられているため、敷地内からは微妙に写真を撮りにくい。


永禄六年九月下旬幸隆公の舎弟長野原城の大将常田新六郎隆永の城兵は農繁期のため小勢だった琴橋須川の橋を落し寄手を防ぐ城兵を岩櫃城主斎藤越前守は白井長尾の援兵を請羽尾入道海野能登守を大将に王城山から五百余騎鉄砲を打掛材木を伐り須川を埋めて押し渡り斎藤弥三郎は三百余騎で湯窪口から攻め寄せて諏訪明神の社前で西吾妻最大の凄絶な合戦が展開したが多勢に無勢闇に紛れて敗退した、しかし斎藤越前守没落の端緒となった長野原合戦の地である

(現地碑文参照)

おそろしく主述関係のわかりにくい文ですが、転記ミスをしているわけではありません。

碑文特有の読みにくい文章ですなあ。

この時の情勢を整理してみます。永禄六年(1563)は第四次川中島合戦から二年後であり、当時上州は関東管領職の名目をもつ上杉謙信(このときは輝虎)、武蔵方面から勢力を拡大していた北条氏康、さらに信濃方面からは武田信玄が進出を目論んでおり、それらに各地域の豪族が複雑に絡んで複雑怪奇な情勢となっていました。

箕輪城の長野業正が善戦したため業正存命中は西上州進攻は遅々として進まなかった信玄ですが、武田家家臣の真田幸隆は鳥居峠から上州吾妻方面へ独自に勢力を拡大します。

以下は上記碑文をわかりやすく解読したもの。(→参照ページ

永禄六年(1563)5月、信玄は長野原城の守りを固めさせている。当時、この地長野原は真田幸隆の舎弟、常田新六郎隆永が守っていた。同年9月、岩櫃城主、斉藤越前守憲広は、長野原城攻略に動く。斉藤氏は重臣であり長野原羽根尾城の城主、海野長門守幸光・能登守輝幸兄弟に500騎を、甥の斉藤弥三郎には300騎を与え、また白井城主の白井長尾氏にも援軍を請い、真田勢の常田氏を攻めた。
最大の激戦はこの諏訪明神の社前で展開され、多勢に無勢の常田氏は敗退した。岩櫃城攻防の前哨戦ともいえるこの戦いで幸隆は敗れることこととなったが、この敗北により幸隆は武力攻略の難しさを知る。そして幸隆は、この海野兄弟・斉藤弥三郎をまるめ込み、岩櫃城陥落に導いた。

上記ページには調略により真田家についた海野兄弟のその後についても記載されています。

その後、海野兄弟・斉藤弥三郎は真田の家臣となり本領を安堵される。海野長門守は岩櫃城代、能登守は沼田城代を勤め昌幸のもとで勢力を振るっていたが、のちに仲間の豪族たちからねたまれ、讒言により昌幸に討たれることとなる。

このことについては、木内館の項でも触れています(海野塚)。




KDの城館探訪記

諏訪神社に隣接して鎮座している大國魂神社。


同じ敷地内にあるのですが、鳥居はちゃんと別に独立してあります。





KDの城館探訪記

こちらは諏訪神社拝殿及び本殿蛸堂。





KDの城館探訪記

参道は苔むしていて何とも言えない趣がありました。


さて、雨も止んできたようなので、この日メインの長野原城に向かうことにしましょう。



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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
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