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二本松城④ ~ホントの空を見てみよう~

近現代の二本松城の沿革。


1868年(慶応4年)の戊辰戦争に際し二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦った。7月29日、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつかれ、新政府軍が二本松城下に殺到し、僅か1日の戦闘において落城した。手薄になった攻城戦においては「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員された。藩主の丹羽長国は米沢に逃亡し、9月に降伏、石高を半減され藩が存続した。この攻城戦において城の建物の多くが焼失した。
1872年(明治5年)、廃城令によって残る建物も全て破却された。
1982年(昭和57年)箕輪門と附櫓が復元された。1993年(平成5年)から1995年(平成7年)にかけて本丸の修復、復元工事がなされ、天守台や本丸石垣が整備された。 

(wikiより)





KDの城館探訪記

ウッドチップの道を下っていくと、このような説明板がありました。


二本松城が会津の支城であった時代、城主に代わって城を守る城代が二人置かれていた時期があり、それぞれ城内の東城と西城に詰めていた記録があります。

現在二本松少年隊の丘となっているこの周辺が西城にあたり、「新城舘」と呼ばれていました。

周囲には土塁や石積みなどがあり、中世的要素を持っています。

ここだけ独立して取り上げようと思ったが、そんなことしているサイトは無かったのでさすがに自重。




KDの城館探訪記

新城舘跡には、二本松少年隊顕彰碑が。

この場所は戊辰戦争直前まで砲術道場で学ぶ少年たちが稽古を行っていた場所といわれています。


たびたび出てきている「二本松少年隊」ですが、詳細を知らない方のために沿革を引っ張ってきました。↓



二本松少年隊(にほんまつしょうねんたい)とは、幕末の二本松藩において戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊のこと。ただし、会津藩の白虎隊と違い当時は隊名がなく、二本松少年隊と名づけられたのは戊辰戦没者五十回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」からである。


戊辰戦争への出陣は12歳や13歳では不可能なのだが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算するという入れ年(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)の制度があり、最少年齢の隊士の年齢は12歳となってしまった。二本松少年隊は藩内各地に出陣した62名を指すが、藩の西洋流(高島流)砲術師範(元は同じ砲術の武衛流師範で後に江戸留学の際に西洋流砲術を習得した)木村銃太郎指揮下の25名が特に有名で、大壇口での戦いにおいて木村をはじめその多くが戦死した。負傷して称念寺に運ばれた者もいたが、やがては息絶えてしまった。これらの出来事は、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られている。

地方の本では、三浦行蔵は倒れていたところを農民に助けられたが、仲間も戦死し、隊長も死んでしまったのに生き残った自分が情けないと悔やみ、その農民が少し目を離したすきにいなくなっていたという。

二本松藩主丹羽氏の菩提寺でもある大隣寺に戦死者16名の墓所がある。また二本松城跡である霞ヶ城公園には群像彫刻や顕彰碑が立っている。

(wikiより・誤字は修正)



会津の白虎隊は有名だが、ここもそれに劣らずの悲劇があったのですね。

もっと有名になってもいいはずなのですが。





KDの城館探訪記
智恵子抄詩碑。


智恵子抄については、私より詳しい方も多いと思います。

あれが阿多多羅山 あのひかるのが阿武隈川

かの高村光太郎が、二本松・安達町出身の最愛の妻・智恵子を偲んで詠んだ「樹下の二人」の冒頭の句です。


この句が刻まれている自然石は「牛石」と呼ばれ、畠山満泰が築城の際に「夫婦の牛」を生贄にしたところ、牛の霊は天に登り身は石と化したという伝説が伝わります。


この石の裏側にも碑文があります。

阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ

(「あどけない話」より)




KDの城館探訪記
そのまま下っていくと、城の西の外れに出ました。


城内案内図で現在地を確認。


う~む、広いなあ。

土井晩翠の歌碑というのもありました。それよりその裏の土塁状の地形が気になってしょうがなかったが・・・





KDの城館探訪記

この場所からは100名山の一つである名峰・安達太良山が見えます。


1700mほどの標高は100名山としては意外なほど低いですが、その雄大さは他の100名山に全く引けを取りません。




KDの城館探訪記

その雄大な景色・・・って、実はこの日は霞みかかってていて、ほとんど見えなかったのよ~(涙)


東京には本当の空がない」と言った智恵子の気持ちを共感したかったのだが・・・




KDの城館探訪記

道を下っていきます。


洗心滝。





KDの城館探訪記
特徴的な木が。

「霞ヶ城の傘マツ」で、「八千代の松」ともいわれるアカマツの巨木です。


推定樹齢300年。





KDの城館探訪記

洗心亭。


もともとは丹羽時代、霞ヶ城内の庭園にいくつかあった茶室の一つ「墨絵の茶屋」です。天保8年(1837年)山崩れにより墨絵の茶屋がこわれたので、これを阿武隈川河畔に移して再建し、藩主の釣り茶屋となっていたのを後に、現在地に移し「洗心亭」と名づけたものです。

二本松観光協会HP より)




KDの城館探訪記

頭上注意!




KDの城館探訪記

滝もいろいろあり面白い。


公園内には早朝だというのにやたらと散歩している人が多かった。

犬を連れている人も何人もいたなあ。




KDの城館探訪記
ここは。


前夜一度訪れた場所だ。


この提灯は桜祭りのものだったのですね。


実際にはまだ桜は咲く一歩手前。


いろいろ見ようとうろうろしていると、散歩中のおばちゃんに声をかけられた。


「桜を見に来たのですか?」


「はぁ。そんなところです。あとお城も・・・


「桜の見ごろはまだもう少しだけ先です。麓の方の桜は咲き始めていますよ。~・・・~」


そのあとも今ならどこどこの場所の桜が見ごろだということを教えてくれました。

このあたりは土地柄か親切な人が多そうです。

丁寧にどうもありがとうございました。その場所には行かなかったけど。


ここは一週間後くらいがちょうど桜の見ごろだったようです。




KDの城館探訪記

公園内にはるり池・霞ヶ池という大きな池が2つあります。


これは霞ヶ池から見た洗心亭だったと思います。違ったらゴメソ。


趣深し。




KDの城館探訪記

「日影の井戸」の下にある「二本松藩士自尽の地」の碑。


薩長土の藩兵中心の約7000に対し、二本松藩は応援兵を含めても約1000人。

各所で戦いを繰り広げたもののついに城下・城内の戦いとなり、城は炎上し落城。

二本松藩の戦死者337名以上、他藩の戦死者も208名以上という、戊辰戦争中最大の壮烈な戦いでした。


ここでは主戦論者であった家老・丹羽一学、城代・服部久左衛門、小城代・丹羽新十郎の三名が責任をとり自尽したとのこと。


天守台の脇にも自尽の碑がありましたが、それぞれ別のものなんでしょうか。

人名も少し違いますしね。


~~~~~~~~~~~~~~~~



一通り見終わって、再び箕輪門をくぐって城を後にします。


箕輪門には丹羽氏の家紋である×(直違い)の紋が印されていました。



締めに「二本松歴史資料館」を目指します。100名城スタンプの設置場所でもあります。





KDの城館探訪記

二本松歴史資料館。ここまで来るのに丘を一つ越えてきました。

車でないと少し歩くことを覚悟しなければなりません。

この丘自体も二本松城の総構えの一部です。

鎌倉の切り通しにイメージは近いです。


開館は9:00、まだ時間があったのでこの周囲を少しぶらぶらしました。

ここのすぐ南側に坂下門(大手門)跡があります。

駅から歩いてだと、まず最初にこの資料館脇の長い上り坂を進むわけですが、その入り口部分にあたります。

ここ坂下門から、坂を登りきったところにあるのが久保丁門跡。

そしてそこから同じくらいの距離を進んで、ようやく箕輪門に着きます。


近世城郭でありながら、尾根筋や谷間も城域に取り込んだ珍しい縄張りの城です。

どれだけ広いんだ・・・


資料館の敷地には久保丁門跡から出土した礎石が展示されています。






KDの城館探訪記
9時になったので資料館内へ。

料金は大人100円、高校生50円、小中生30円と超良心的。

これなら自分も抵抗なく入れます。


受付でスタンプ押印、良好。どこから来たのか尋ねられました。


展示内容は100円どころか500円くらい取ってもいいくらい充実していました。

内部展示も何枚か撮影したのですが、もしかしたら撮影禁止だったかもしれない・・・(汗)

一枚だけ掲載。「光重公と松の廊下事件

光重とは二本松藩主・丹羽光重のことです。

写真でも左側の盆の上縁部に窪みがあるのが見て取れます。

これについてエピソードが伝えられています。

元禄14年(1701)3月江戸城内松の廊下で、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が吉良上野介に対して刃傷沙汰に及んだ。この事件は江戸の二本松藩邸からただちに国元の光重に知らされた(光重と長矩は遠戚関係であったため)。

光重は既に高齢で隠居していたが、この報を聞くや病床より起き、枕元のキセルを手にし「なぜ切りつけたのか、なぜ突かなかったのか。突けば思いを達することができたものを」と、無念と口惜しさからキセルで灰入れを思い切り叩いたという。




KDの城館探訪記
本丸石垣の航空写真。


そういえば、国指定史跡である「二本松藩戒石銘碑 」の写真をとるのを忘れてた!


ということで、いろんなところから説明だけ引っ張ってきました。↓

箕輪門の少し東側にあります。訪れた際は必見です。


昭和10年文部省史跡指定

丹羽家七代・丹羽高寛公が、家臣の儒学者・岩井田希夷(昨非)の献策によって、藩庁前の自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針として、一夜のうちに刻ませたものであると云われています。

"爾が俸 爾が禄は 民の膏 民の脂なり
下民は虐げ易きも 上天は欺き難し"

意味・・・
「お前たちの棒給は、領民の汗と脂の結晶なのである。つねに感謝をし、領民をいたわなければならない。これに反し、領民を苦しめれば、必ず、天の怒りに触れるであろう。」




おまけ
KDの城館探訪記

二本松から会津へ向かう途中、R115土湯バイパスを走行したが、土湯トンネルの辺りは濃霧!

しかもいきなりだったからかなりビビった。


これは麓から安達太良山が見えないわけだ。




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登城日:2008年4月13日  所在:福島県二本松市郭内

評価:★★★★☆


二本松と言えば日本最大の菊の祭典である「二本松の菊人形」展が開かれることでも有名です。桜の季節か菊人形展の時期に訪れるのがいいかもしれません。混みそうだけど。

山上・山下のそれぞれの遺構が楽しめる点も高評価ですが、全体が公園化され散策しやすいというのが個人的にはお気に入りなところです。公園内にも見どころが多く、訪れた際は下と上だけ見るのではなく真ん中部分を歩いてみるのもおすすめです。

地震の被害は出ているのでしょうか。心配です。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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