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蒼海城 ~幻の上野国府~

ここは昔、毛の国と呼ばれた。越の国、豊の国などのように、上古には一字で国を表した地域がある。大宝年間頃から、国名は二字ということになったのだが、それまでは、毛の国を上下に分けて上毛野、下毛野と呼ばれていた。それぞれ「かみつけの」、「しもつけの」と読む。群馬県と栃木県を結ぶJR線を両毛線という所以である。
崇神天皇の48年(紀元前50)、皇子の豊城入彦とよきいりひこ命に命じ東国を平定させた。皇子の子孫が上毛野国造、下毛野国造になったという。
古代には「車評」くるまこおりが置かれた。クルマとは「玄馬」をいうといわれ、騎馬を得意とする渡来人が移住していたらしい。群馬という地名の由来であろう。

弘仁2年(811)、上野国はそれまでの上国から大国に改められ、天長3年(826)上総、常陸とともに親王を以て太守に任ずるという、いわゆる親王任国になった。


参照HP「国府物語



蒼海(おうみ)は、永享元年(1429年)上野守護代総社長尾氏によって築かれた。築城は長尾景行とも長尾忠房ともいわれる。


この城は染谷川とその支流牛池沢との間に縦横の堀を配しており、この縦横列郭構造は築城以前に既設の構えがあったことを暗示している。


城郭大系によると、幻の上野国府を戦国城郭に編成したのがこの城ではないか、としている。


平将門が上野国府を襲った時の染谷川古戦場もここにある。


戦国期に入ると総社長尾氏は衰退し、武田信玄により蒼海城は落城。


その後、徳川家康が関東に入国すると諏訪頼忠が蒼海城に入るが、慶長6年旧領信濃国高島へ移封。替わって秋元長朝が一万石で入封するが、長朝は総社城を築いて移った為、廃城となった。


蒼海城の旧地形に拘束された不合理な縄張りが、秋元氏が新城を築いた理由とされている。




KDの城館探訪記

前橋市元総社町にある上野国総社神社。





KDの城館探訪記

神社境内にあるどでかい蒼海城縄張図。


記載内容がもろ近世城郭風なので胡散臭い面もありますが、縄張り自体は城郭大系の図に通じるところもあるのであながち嘘でもないようです。


この図を見ると、現在地(総社神社)の北西に城の中心部があったようです。





KDの城館探訪記

総社神社の北西、住宅街の中にある宮鍋神社。


蒼海城の中心部にあたる場所とされていますが、道が狭く入り組んでいるため辿り着くのがちょっと大変。





KDの城館探訪記

宮鍋神社の境内はとてもせまいのですが(駐車場すらなし!)、説明表示の類はいろいろと充実しています。


こちらの神社の由緒書きにも、長尾景忠四男・忠房が上野国府を城郭化して蒼海城と称した旨が記載されています。

この説明板の内容はとても興味深いものですが、書き写すのが面倒なので記載はせず。





KDの城館探訪記

上野国府正庁推定復元図。まさにこのあたりにあったと推定されています。


平将門はここで上野総社の巫女の神託を受け、新皇を称した。





KDの城館探訪記
城址碑らしき。


立て看板には「蒼海城沿革」の文字がわずかに読み取れましたが、劣化が激しく解読は困難です。




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所在:群馬県前橋市元総社町

評価:


一度目は総社神社周辺、二度目は宮鍋神社周辺を探索しました。城域はかなり広大なものですが、遺構はほとんど見受けられません。「初めから水濠によって細かく区分されているということは、城や城下町の発展に大きな制約を加えることになり、利根川の険しい河岸を利用した石倉城厩橋城に比べて、要害性も著しく劣る」とレポートされている方もおりますが、まさにそういった理由で領域支配の中心城郭としては適さなかったものと思われます。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
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