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江戸城⑤ ~二重橋・大楠公像~

このままでは年内で江戸城編が完結しない・・・ということで少しペースアップ。

写真を撮りすぎたせいで選ぶのがめんどくさい大変。


桔梗門から蛤濠沿いに進むと、次の門が見えてきます。



KDの城館探訪記   

坂下門。

立派な門で、警備も厳重。写真を撮るのも少し憚られます。やや遠方から撮影。

警備レベル高

老中安藤信正は、公武合体運動を推進して、皇女和宮を14代将軍家茂の夫人に迎えることに成功した。これに憤激した尊攘派水戸浪士は文久二年(1862)1月、午前8時頃、坂下門前の屋敷から登城途中にあった安藤信正を襲撃した。傷ついた信正は、坂下門内に逃げ込んで一命を取り留めた。世に言う坂下門外の変である。
坂下門外の変は、桜田門外の変同様、水戸浪士の手によって実行された。桜田門外の変では、大老井伊直弼の首級を挙げたのに対し、坂下門外の変では討ち損じている。計画はどちらかというと疎漏。時勢に対する感覚という意味でも、この時点で安藤信正を討つのにどれほどの意義があったか疑問である。桜田事変の「二番煎じ」という印象を拭えない。
現在の坂下門は渡櫓門のみとなっているが、昔は江戸城の標準的は枡形の門で今とは違って渡櫓門は左側にあった。




KDの城館探訪記  

坂下門から南側、二重橋濠は折れがいくつもありかなり実戦的です。

と、ここで何か様子が変化しました。写真奥、石垣から緑色の塁線になっているのが見えますでしょうか。

これは・・・土塁だ~!ドンッ


ここまでは総石垣の城壁で、さすがに天下の巨城だな~と半ばポカーンと眺めていましたが、ここで目が覚めた感じがしました。これは鉢巻石垣ですよ!

鉢巻石垣とは土塁の上に石垣を築いたもので、有名どころでは彦根城のものがよく知られていますが、江戸城にもとんでもない規模で存在しています。土塁の規模が半端なくデカイ。


腰巻石垣もセットでついています。これはものすごく興奮しますが、次回の桜田濠でより詳しく述べたいと思います。





KDの城館探訪記  

規模もさることながら、美しい・・・




KDの城館探訪記  
この写真ならわかりやすそうです。

土塁の上部の石垣を鉢巻石垣、下部の石垣を腰巻石垣と呼びます。

しかし美しい・・・




KDの城館探訪記  
皇居正門。

ここも警備は厳重ですが、多くの観光客が集まり、写真などは撮りやすい空気です。

警備されている方が二重橋について丁寧に説明しているのが印象的でした。

警備レベル高




KDの城館探訪記  
奥に見える橋、鉄橋。

昔はこの鉄橋は「西丸下乗橋」と呼んでいた。新宮殿造営の時に木造橋から現在の鉄橋に架け替えられた。
二重橋というのは、前後(石橋と鉄橋)に橋が二つ重なって見えるから、というのが通説であるが、元々は、この西丸下乗橋(鉄橋)がかつて二重構造になっていたので二重橋と言われていた。木造橋だった江戸時代、濠が深くて架けられなかったことから、下に通行できない橋を作り(下のアーチの部分)、それを土台にしてその上にもう一つ橋を架け二重構造のになっていたので「二重橋」と言っていた。
現在宮内庁の正式名は「皇居鉄橋」である。

石橋と鉄橋で二重橋じゃないんだ。

そういえば警備している人もこんなようなことを説明していた気が。




KDの城館探訪記  
こちらは手前の石橋。


皇居内にある二重橋。別名「石橋」。ここから先は普通は入れないが、正月参賀などの時には通行できる。
皇居正門前の橋で、日本の古い文化と西洋文化とがよく調和した世界でもっとも美しい景観の一つであるとされている。昔は西丸大手下乗橋といい木橋が架けられていた。その木橋に替わり、明治20年(1887)12月に架け替えられ、石橋に改め、俗にめがね橋ともいっていた。
二重橋の名前は、この奥の木の橋(現:鉄橋)が架けられていた部分の濠が深く、橋桁を二重に組んであったために起こった。
一般的には、この二つの橋を総称して二重橋と通称している。なお、奥の鉄橋は、昭和39年6月、新宮殿工事の際に架け替えられている。




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後光がさしている・・・

以前二の丸庭園で見た「飾電燈」はここのものだったのか。
その③参照)




KDの城館探訪記
こちらが一般的に二重橋と呼ばれる、有名なアングル。目

和洋折衷の世界でもっとも美しい景観の一つ・・・さもありなん。

なんか中国人観光客が盛んに写真を撮っていた。




KDの城館探訪記
江戸城に三つ残る現存櫓の一つ、伏見櫓。


京都伏見城の櫓を解体して移転したと伝えられている。この伏見城は関ヶ原の合戦後に家康が再建したもの。 また、この櫓には連続した長屋作りの多聞が残っている。
伏見城は慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで、甲賀一族が立て籠もり、石田三成に攻め落とされた城でもある。甲賀一族は織豊時代から家康を陰に陽に支えていた。家康が一族をしのんで移築したのではないかとも言われている。
現在の櫓は大正12年の関東大震災で倒壊し 、復元されたもの。このとき、崩れた土手から数体の人骨がみつかり「人柱ではないか」などと騒がれた。江戸城は大名が競って造営に当たった城であり、崩落事故で行方不明者が出てもなお造営が続けられたのではないか、ともいわれている。
櫓をめぐる歴史の謎も今となっては霧の中だが、見つかった遺骨は震災の混乱の中、芝・増上寺で手厚く供養されたという。




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続いて向かうは桜田門・・・と、なんだかものすごい人だかり。

奥に見える桜田門から次々とランナーが飛び込んできます。




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この日は皇居一周のマラソン大会が行われていたようで、かなり多くの人が参加していました。

とりあえず桜田門と二重橋の間の濠。

折れが素晴らしい。




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この場所はマラソンのゴール地点のようです。

この時点でゴールしている人はかなり成績上位者らしいことが後になって判明しました。

そういえば桜田門をくぐる前に行っておかなけらばならない場所が。

大楠公こと楠木正成像です。




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楠木正成像を見ようとしたは良いが、桜田門からは思いのほか距離がありました。

皇居外苑の南東の隅に立っているためです。外苑広すぎ。

ようやく正面にそれらしきものを見つけた。

江戸時代には西の丸下とよばれ、重臣の屋敷が置かれていた。明治に入り一時期軍の兵舎も置かれた時もあった。
皇居外苑は昭和24年に旧皇室苑地の一部が国民公園として開放されたもので、皇居前広場を中心とした皇居外苑地区、皇居の北側に位置する北の丸地区及び12の濠によって皇居を取り巻いてる皇居外周地区に大別され、総面積約115ヘクタールあり、このうち、濠の水面部分は12の濠をあわせて約37ヘクタールで苑地全体の約3分の1を占める。
皇居外苑にはクロマツが植えてあり「日本の名松100選」に選ばれている。また、松は千代田区の木にも指定されていて、皇居外苑を含めて区内には約6,800本の松がある。




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皇室の忠臣・楠木正成像。

現地碑文では楠正成像となっています。どちらでもよいそうで。


上野の西郷隆盛、靖国神社の大村益次郎の銅像とともに、東京の三銅像の一つと称されている。
像の顔は正面とは反対側の皇居側を向いている。
これは、皇居に対して顔を背けるのは失礼にあたるという理由によるもので、像の正面から見て顔が反対側を向いているという珍しい作りの銅像でもある。

へ~、そんなトリビアがあったとは。




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いろんな角度から。


高さ一丈三尺二寸(約4m)長さ一丈八寸(約5m)銅体の重量1,800貫(約6,650㎏)と伝えられています。





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かっこええのう・・・

明治23(1890)年、伊予国(愛媛県)別子銅山の開坑200年を記念し、時の住友家当主・友忠が、皇室に対する忠臣としてその名を知られた楠正成の銅像を、自らが経営する別子銅山の銅を用いて鋳造し、宮内省(現宮内庁)に献納することを志した。
残念ながら友忠は銅像の完成を見ることなく若くして亡くなったが、その遺志を継いで銅像を献納したのが、記文に名を残す住友吉左衛門でる。
銅像の制作を依頼された東京美術学校では、当時木彫科の主任教授であった高村光雲をはじめ、複数の教授および学生が制作に携わり、6年後の明治29(1896)年に完成した。
その後台座部分が完成し、現在の位置に据付が完了したのは明治33(1900)年であったが、台座部分の記文には銅像完成直後の明治30(1897)年1月の日付が記されている。

台座の碑文には、上記の旨が漢文で記されています。




その⑥~桜田濠!~へ

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コメント

1. 鉢巻腰巻石垣


の規模は半端ないですよね。

私が、この城に行った時に、最初に見たのは半蔵門。
その両脇の土塁を利用した石垣の列を見た時に、開いた口がふさがらないほどの衝撃をうけました。

2. Re:鉢巻腰巻石垣


>syunpatsuryoku1号さん

まさにそこです。半蔵門側の土塁と堀。
自分もあそこが一番衝撃を受けました。

江戸城で一番の見どころは、天守台や二重橋じゃなくて
あの長大な土塁(と鉢巻腰巻石垣)なのではなかろうかと思います。

3. 南楠公像


軍部による血税を使ったり、宮内庁が民衆に強引にカンパさせた金で製作した幕末の志士とやらの銅像らと違い、財閥とはいえ、民間人による寄贈はご立派ですね。

4. Re:南楠公像


>Redondo1985さん

コメントありがとうございます。

ほかの銅像ってそんなに無理やり作成したんですか。そう言われるとそんな気がしてしまいます(笑)
あれだけのものを寄贈するとなると、かなりの財力が無いと厳しいと感じました。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
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