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桃井城 ~六波羅探題攻略・桃井直常の城~

桃井城大藪城とも呼ばれ、南北朝時代の武将・桃井直常が築いた城とされます。

直常は初め足利尊氏に従い、京都六波羅探題を攻め落とした武将で、後に尊氏に反旗を翻します。


桃井直常、どこかで見た名前だと思ったら、これでした↓




当時小学生だった自分の記憶の中に、弓を失った北畠顕家が「弓がのうては・・・」(だったっけ?)と絞り出すように言ったシーンがやたら印象に残っています。

しかし今見ると凄いキャストだな・・・



お城の場所はr25号線・吉岡町田中の交差点の西方600mほどの丘上にあります。

周辺に案内看板がないので少々迷ってしまいました。

田中の信号を西折すると右前方にそれっぽい感じの丘陵があり、そこが桃井城です。鳥居が見えたのでそれを目指してみます。




KDの城館探訪記
金剛寺跡。いかにも城の郭の一部分といった感じです。




KDの城館探訪記
お堂の脇にある宝筺印塔は町の指定史跡となっています。

説明板によると、宝篋印陀羅尼経を納めた小塔を模して造られた石塔を宝篋印塔と言い、鎌倉期より供養等として造立されたといいます。江戸期には墓塔として用いられることが多くなりその形は著しく変化したそうな。

そしてこの宝筺印塔は室町初期造立の形態を具えていて、吉岡町石造物中屈指の逸品である、とのこと。

桃井氏とゆかりの深い金剛寺跡の畑中に宝篋印塔があった。現在不動堂の右脇に移されているが、塔の基礎部に「浄限大禪定門(じょうがんだいぜんじょうもん)應永十三(1406)年十二月二十日」と刻まれている。
桃井播磨守直常(もものいはりまのかみなおつね)の戒名は不詳であるが、この宝篋印塔は直常の菩提を弔う供養塔であろう。不動堂左脇の沢山の五輪塔は、直常に従って戦死した人々の供養の為と伝える。

(吉岡町HP参照)




KDの城館探訪記
金剛寺跡から東側へ続くなだらかな坂道を登っていくと、八幡宮の境内です。見晴らしのいい削平地で、ここが本郭だと思いましたが、城を示す案内や標柱が見当たりません。

「大藪獅子舞」についての説明板と標柱はあります。

大藪の獅子舞は、大永3(1523)年桃井播磨守が守刀とともに八幡神社に奉納したのが始まりといわれる。云々・・・




KDの城館探訪記
本殿裏が土段状に高くなっていたので登ってみる。

う~ん、郭にしか見えない・・・




KDの城館探訪記
「確か城址碑があるはずなんだがなあ」と思いながらうろうろするが見つからず。
残念だが攻略完了ということにして退却します。

八幡宮を下から。





KDの城館探訪記
もやもやしながら車でぐるりと回ると、丘の西側に城の入口を示すボロボロの案内を発見。

こっちが本郭か!




KDの城館探訪記
ゆるやかな坂を登っていきます。

丘陵の一番高いところが本郭です。土居がめぐらされ、物見台となっていました。

右手にある水道施設との間は堀切のようになっていますが、後世のものでしょうか。




KDの城館探訪記
城址碑と説明板。

ここは南下字大藪の通称城山と呼ばれる、標高349.4mの丘陵地である。
南北朝時代、この地に生まれ、足利氏ゆかりの武将桃井直常(なおつね)が居城を築いたところと伝えられ、桃井城又は大藪城といわれ、榛東村山子田の桃井城又は山子田城といわれる城と密接な関係にあった。

直常は弟直信(なおのぶ)と共に足利尊氏に従い、京都の六波羅探題を滅ぼし、その後尊氏の弟直義に従って南朝に協力し、播磨守となり、また越中守護となり、北朝の尊氏方と戦い、晩年は播磨(榛東村)に隠棲したと伝えられている。
城跡は農地開放のため開発が進められ、ほとんど原型を浅していない。
(説明板参照)




KDの城館探訪記
一応三角点もあります。




KDの城館探訪記
北東側には半円状の土塁が残っていました。




KDの城館探訪記
主郭からの眺め。

あいにく空気が濁っていたので、イマイチな感じ。

空気が澄んでいたら赤城山がはっきりと正面に見えたことでしょう。




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所在:群馬県北群馬郡吉岡町大字南下 
評価:★★


桃井直常の最後についてははっきりしません。反幕府最強硬派とみなされた直常は、越中において足利義詮の命を受けた吉見氏頼・斯波義将らの追討軍に討たれ消息を絶ちます。一説には故郷群馬県榛東村「桃井郷・新井 播磨」でひっそりと暮らしたと伝わります。金剛寺の宝篋印塔が、まさに直常の墓である、とも。
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コメント

1. この時代は


本当に、戦国期以上に難しい時代だったんだなと思います。
我が伊予の河野氏にしても、北朝→南朝→北朝と鞍替えを結構していますし、そして何より、北上方だった時代に、同じ北朝方の細川氏に攻められている…。
まぁ色んな利害関係が複雑に入り組んでいたのでしょうね。

この城も、やや残念な姿ですが、最後の土塁はよく残っていますね。
是非とも保存を!!!

2. すごい城跡ですね


ある意味すごい城跡ですね。遺構が残っているのかどうかわかりにくいんですが、でもそこにはっきりとあったってことが感じられる城跡がいいですね。これが土地のもっている記憶なんですね。
それと僕も関西周辺の城の紹介ブログをしているのですが、まだまだ初心者なのでとても参考になります。画面から迫力が伝わってくるような感じがしました。これからもよろしくお願いします。

3. Re:この時代は


>syunpatsuryoku1号さん

南北朝期が複雑極まるというのは同感です。
太平記は読みやすく面白いのですが、全体的な流れなどは
正直戦国期より難解だと思いますし、それが入口を狭めているような気もします。

コーエーさんあたりがこの時代を題材にしたゲームでも開発してくれれば、
ゲームから入ったマニアックな知識を有する人も増えそうなんですがねえ・・・

4. Re:すごい城跡ですね


>takasanさん

コメントありがとうございます。
「土地のもっている記憶」ですか。なんかかっこいいですね(笑)

自分はメジャーな城も超マイナーな城もどっちも好きなのですが、
実数の比率的にどうしてもマイナーな城を紹介する割合が増えてしまいます・・・
メジャーな城の登城記も早く更新したいのですが・・・

ありがとうございます!

私は桃井の子孫で、今現在もその名字です。私の先祖が命をかけて残した物をご紹介くださってありがとうございます。桃井家直属の後取りは、今関西にて繁栄したのでもう群馬には誰も親戚がいません。こうやって知れて良かったです。

Re: ありがとうございます!

>momoさん
前のブログに書き込みがあったのでこちらに転記させていただいました。
そうですか!桃井直常の子孫の方は関西で今も御健在なのですね。
そういったことはネットで検索しても出てこないので、教えていただいてありがたいです。
コメントと情報、こちらこそありがとうございます。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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