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豊臣秀次館 ~殺生関白か、名君か~

八幡山城の山麓に、城主であった羽柴秀次の居館がありました。


城主といっても、通常険しい山上の本丸で生活していたわけではありません。


山城がある場合、普段はその麓にある居館部で生活していたというのが一般的で、これは中世も近世も基本的には同じです。




KDの城館探訪記

八幡山城から徒歩で下って行き、途中ロープウェイの下をくぐる形で西側へ向かうと、八幡公園の端に出ます。




KDの城館探訪記

ここも何となく城郭っぽい作りに見えますが、秀次居館はこの公園の西側の端にあります(ここは東側の端)。




KDの城館探訪記

案内板。


大手道といったものも示されています。


天正十三年(1585)に羽柴秀次によって、この八幡山(鶴翼山)に八幡山城が築かれました。八幡山城は山頂の城郭と南山麓の屋敷群に分かれており、赤線で表した大手道は、秀次館跡の出入り口から家臣屋敷群のほぼ中央を直線的に走っています。大手道の両側には雛段状の家臣団屋敷群跡が広がっています。また、その屋敷群を囲む尾根には、石垣を伴った曲輪と呼ばれる遺跡が残っています。この曲輪と築城時に開削されたと伝わる八幡堀が城の総構えを形成していたと考えられます。

(案内板参照)




KDの城館探訪記

八幡公園下にある市立図書館。

秀次居館へはこの裏手から入ります。


が、前述の通り、この図書館内の展示室でデジカメの電池切れ。

一日で500枚以上写真撮ったからなあ。よくここまでもった。




仕方がないので、秀次事件について少々。



文禄4年(1595年)、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられた。7月3日、聚楽第に居た秀次のもとへ石田三成、前田玄以、増田長盛の3名の奉行の他、宮部継潤、富田知信(奉行代行)の計5名が訪れ、秀次に対し高野山へ行くように促した。 7月8日に秀次は謀反についての釈明の為に、秀吉の居る伏見城へ赴くが、福島正則らに遮られ、対面することが出来ず、同日高野山へ入り、それから1週間後の15日に秀次の許へ正則らが訪れ、秀次に対し秀吉から切腹の命令が下ったことを伝えられ、同日、秀次及び秀次の小姓らを含めた嫌疑をかけられた人々が切腹することになった。 秀次は雀部重政の介錯により切腹し、そして重政と東福寺の僧・玄隆西堂も切腹した。 秀次及び同日切腹した関係者らの遺体は青巌寺に葬られ、秀次の首は三条河原へ送られた。

そして、8月2日(9月5日)には三条河原において、秀次の家族及び女人らも処刑されることになり、秀次の首が据えられた塚の前で、遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女ら併せて39名が処刑された。約5時間かけて行われた秀次の家族らの処刑後、その遺体は一箇所に埋葬され、その埋葬地には秀次の首を収めた石櫃が置かれた。その後、秀次ら一族の埋葬地は慶長16年(1611年)、豪商の角倉了以によって再建されるまで、誰にも顧みられることなく放置されていた(畜生塚)。なお、秀次に関連した大名は監禁させられ聚楽第も破却された。

(wikiより)


秀吉に実子秀頼が生まれると、秀次は秀吉にとってあからさまに邪魔な存在になり、謀反の疑いありとして高野山へ追放・そして自害させました。このころの秀次は、悪行・乱行を繰り返し「殺生関白」と呼ばれるようになり、これが処刑の原因ともされています。


しかし秀次の悪行には資料的裏付けは無く、作為的に作られたものと考えるのが有力とされています。
逆に言えば、「殺生関白」などという噂を流して、名声を地に落としておく必要があるほど、もともと名声は高かったのでは。


今回ここ近江八幡を訪れて、この地では秀次は暗君としては扱われておらず、むしろ街の礎を築き善政を敷いた名君として偲ばれていることを知り、この思いは強くなりました。


秀次は殺生関白ではなかった、と。



秀次事件の影響、wikiより。


切腹を受け入れたにもかかわらず首を晒し一族郎党を処刑するという、当時の日本の倫理観と社会常識に照らし合わせれば悪逆無道ともいえる仕置は、豊臣政権内外に大きな禍根を残した。

藤木久志は政権内部の対立が秀次事件を機として、さらに深化を遂げたと評している。

また、秀次事件に関係し秀吉の不興を買った大名は総じて関ヶ原の戦いで徳川方である東軍に属することになる。笠谷和比古は、朝鮮出兵をめぐる吏僚派と武断派の対立などとともに、秀次事件が豊臣家及び豊臣家臣団の亀裂を決定的にした豊臣政権の政治的矛盾のひとつであり、関ヶ原の戦いの一因と指摘している。

秀次は秀吉晩年の豊臣家の中では唯一とも言ってもよい成人した親族であった。しかし、秀次とその子をほぼ殺し尽くしたことは、数少ない豊臣家の親族をさらに弱める結果となった。ただしその一方、後継者が確定しないなかで秀吉が死去した場合、覇権を巡り秀頼と対立し豊臣家内の分裂を引き起こした可能性もある。




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登城日:2010年9月22日  所在:滋賀県近江八幡市宮内町 

評価:★★☆


大きな石を使用した立派な石垣が印象的でした。一部積み直し(復元?)の感もありましたが、発掘調査を行ったということですので、その後の整備なのかもしれません。奥に進んでいくと折り重なった石垣が迫ってくるようでした。一番奥はちょっとわけがわからない状況でしたが。いずれにせよ、写真がないのが惜しい!ただ、もし電池残量があったとしても、この暗さではもうまともな写真はとれなかったと思われます・・・そう思えば諦めもつく。明るい時に見ればもっと評価は上がるかも。

北之庄城リベンジ時に、ここの写真も撮り直すことにします。秀次卿の銅像も。

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コメント

1. やはり


秀次は、決して暗君ではなかったと私も思います。
耄碌してきた秀吉の犠牲になったのでしょう。

再び、リベンジされるとの事。
期待しております。

2. Re:やはり


>syunpatsuryoku1号さん

下世話な話になりますが、多くの側室を持ってもほとんど子供ができなかった秀吉からすれば(秀頼も本当に秀吉の子か怪しい)、子だくさんの秀次の生殖能力が妬ましかったというのもあったような気がします。
秀次に沢山子どもを作らせ、その子たちを諸大名と縁組みさせれば豊臣の血が途絶えることもなかったのにと思います。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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