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八幡山城① ~青年大名秀次の居城~

別名近江八幡城。八幡山(標高286m)の山上に築城された。城下町は安土城城下町を移住させて形成し、現在は一部が城下の「日牟禮八幡宮境内地」「八幡堀」とともに重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。八幡堀は琵琶湖の水を引いて作られた堀で戦闘の用をなすだけでなく運河の役割も果たしていた。

天正13年(1585年) 羽柴秀次によって築城。天正18年(1590年) 尾張・清洲城へ移った秀次にかわって京極高次が入城。文禄4年(1595年) 高次が大津城へ移ったため、八幡山城は廃城になる。

八幡山山頂へはロープウェイが通じており、4分で到着できる。石垣が現存し、本丸跡には秀次の母・豊臣秀吉の姉の日秀(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が昭和36年(1961年)に移転されている。また、平成13年(2001年)には山麓で豊臣秀次の館跡が発見された。

(wiki参照)


後の関白となる豊臣秀次が、天正13年(1585)の紀伊雑賀攻め、および四国攻めの功により近江八幡に43万石を与えられて築いた城です。



KDの城館探訪記

城下の八幡掘

「折れ」も備わっており、防御施設としてばっちり。


この堀では「日本一遅い乗り物(?)」といわれる「手こぎ船」に揺られて水郷めぐりを楽しむことができます。

水郷と呼ぶにふさわしい情緒があります。


この写真を撮ったあたりの道が細く、カーブのところなど車の通行ギリギリでした。

一番狭い場所を何とか通過したところなど、道を歩いていた若い女性二人組に拍手されたほどです。

自分はナビなしなので迷い込みましたが、このあたりは車では入らない方が無難です。

堀の光景を眺められたので結果オーライ。




KDの城館探訪記

さて、八幡山下のロープウェイ乗り場。

画面左上の山上が城の中心部分です。


現在の時刻は16:30。歩いて登れぬこともない、が・・・

今回は経費削減の必要もないし、レポを優先するためロープウェイを使用します。


ただ、山上についたら尾根伝いに北之庄城へ行ってみたいと思っていたので、帰りの切符は買いませんでした。

(最終便が17:00発のため)


受付の方もこの時間帯に片道切符など、と一瞬いぶかしそうなそぶりを見せたものの、

「帰りの山道は明かりがありませんので注意して下さい」との説明。


たまにいるんでしょうね、自分のような客が。怪我したり遭難しても自己責任で、ということでしょう。


料金は大人片道460円、往復800円(こどもはそれぞれ半額)。




KDの城館探訪記

ワンウェイチケットで山上へGO!




KDの城館探訪記

ぐんぐん高度を上げていきます。速い速い。


下を見ると、僅かに山道が見えたりもします。あれを使って降りるのかあ・・・


ロープウェイ内ではお城のガイドが流れていたと思われるのですが、同席のおばさまたちのおしゃべりで全く聞き取れませんでした。ショック!


こういったところはやはり関西圏といったところなのでしょうか・・・

(おばさま集団のマシンガントークに地域は関係ない?)




KDの城館探訪記

頂上駅からの眺め。


いや~、予想より全然高い。




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案内図があります。

ほぼ完全にお寺の敷地としての案内図ですが、城を見るつもりで眺めると縄張りも残っています。


というか、ロープウェイを降りると目の前に立派な石垣が聳えていてかなりオドロキです。

普通の観光客はどう思うのかなあ。何も感じないのだろうか。




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登城路(というか参道)を進むとすぐに現れるお願い地蔵堂。


ここを過ぎると分岐。左が西の丸・出丸経由で北ノ丸へ。

右が村雲瑞龍寺参道。

どちらを使っても結局は一周できるのですが、前を進む団体は皆左へ。

人間心理として、こういった場面では一般的に左を選択することが多いです。


ということで、特に理由は無いがあえて右へ。




KDの城館探訪記

休憩所があります。ここが二の丸跡。


入ってみると、二階が休憩室兼展望室兼資料館になっています。


壁に展示が掲げられているだけですが、いろいろな資料があり意外と見ごたえあります。

もう少し資料を揃えれば有料の資料館としてもいいほどです。

まあロープウェイ代にそれが含まれているとも考えられますが。




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見えにくいでしょうが、縄張図。

中心部分の虎口の構造など、まさに織豊期城郭のそれです。

北と南に派生する尾根も城域に取りこんでいる様は、中世山城の流れを汲んでいるようです。



城主秀次についての解説もあります。一部抜粋。


・・・秀次は弱冠18歳の青年大名であったが、築城とともに城下町の建設に情熱を注ぎ、安土城下から多くの住民を移住させたという。

・・・文禄4年(1595)京極高次が大津城に移ると八幡城は廃城となった。皮肉にもこの年、豊臣秀次は秀吉の逆鱗に触れ、高野山で自刃。


・・・秀次は八幡城主時代、楽市楽座の善政を敷いて近江商人発展の基盤を築いた。その秀次は秀吉の養子として関白の地位にまで昇進し、秀吉の後継者とみられていた。

・・・ところが、晩年の秀吉に秀頼という実子が生まれたために運命は狂った。秀次は聚楽第で暴挙に及び、世に「殺生関白」と呼ばれたが、この史実のほどは明らかでない。ただ、折に触れて秀吉と衝突したのは確かで、最後は高野山で切腹させられ、27歳の短い生涯を遂げた。さらに妻子など四十人余が京都三条河原で見せしめに斬首され、「太閤様の世も終わりじゃ」と人々が嘆いたほどの悲惨な光景であったという。


近江八幡市では秀次の遺徳を偲ぶ慰霊祭が毎年、秀次の銅像の前でねんごろに行われている。




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豊臣家滅亡の遠因ともなった秀次事件。

ほかの資料館よりもこの場所の方が資料展示が整っているかも。


このほか八幡瓦の展示などもあります。




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瑞龍寺へ向かう。


それにしても立派な石垣だこと。




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瑞龍寺。何と門が閉まっています!


まだ17時前なのにな~残念。




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村雲御所瑞龍寺門跡。


日蓮宗唯一の門跡寺院であり、菊の御紋章を許されて勅願所となった。




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石垣素敵。



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北の丸跡。


ここからの景色がまた素晴らしい。




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夕暮れも近い琵琶湖。




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安土城観音寺城も指呼の間にあります。




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コメント

1. この城


結構な巨城というイメージがありますが、あまり紹介されている方が少ないので、結構ワクワクしながら読みました。
まだまだ序盤ですよね。
続編、楽しみにしとります(^0^)

2. Re:この城


>syunpatsuryoku1号さん

自分もそんなに深くは知らなかったのですが、
大規模な石垣にびっくりしました。

ちなみにレポート作成に時間がかかり過ぎているので、
残りはサクサク行きますよ(^▽^;)

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KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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