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倉賀野城 ~滝川一益、袂別の宴~

高崎市史No.124

倉賀野は西上野と北武蔵の境界に位置し、利根川が流れ中山道が通過する交通の要地で、城は烏川左岸の河岸段丘上に立地する。東西800m、南北400mを城域とする。

倉賀野氏は鎌倉時代の治承年間に武蔵児玉党の支流である秩父高俊が倉賀野の地に館を構え、倉賀野氏を称した。南北朝時代に倉賀野光行が館を改修し倉賀野城を築いた。

戦国時代には城主の倉賀野行政が関東管領の上杉憲政に仕えたが、天文15年(1546年)の河越夜戦で戦死した。その後、上杉憲政が長尾景虎(上杉謙信)を頼り越後に落ち延びたため、倉賀野城は倉賀野尚行が城主となり、金井秀景や須賀佐渡守をはじめとする倉賀野十六騎と城を守った。

永禄年間に後北条氏が上野を領国化したが、このとき、上杉憲政の旧居城・平井城ではなく、倉賀野城が北条氏の領国経営の中心になっていたとみられる。しかし上杉謙信が永禄3年に越山してくると、倉賀野氏はすぐに箕輪長野氏と上杉に従っており、倉賀野城も上杉方となった(『新編高崎市史』)。

倉賀野城は上杉方の長野氏が拠る箕輪城の支城としての役割を果たしていたため、永禄4年(1561年)には甲斐国の武田信玄による西上野侵攻で競られ、金井秀景らが武田氏に与するなど内部分裂もあり、永禄8年(1565年)に落城した。倉賀野尚行も謙信を頼って越後に逃れた。

元亀元年(1570年)、武田氏に従っていた金井秀景が城主となり、以降は姓を改め倉賀野秀景と名乗った。

天正10年(1582年)、武田氏が滅亡すると、秀景は滝川一益に従ったが、本能寺の変の後は北条氏直に仕えた。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が行われると、秀景は北条方武将として小田原城に籠城する。結果、小田原落城と共に倉賀野城も降伏・開城し、その後は廃城となった。

(wiki参照)



場所は群馬県高崎市倉賀野町、倉賀野中から井戸八幡宮あたりにかけてが本来の城域ですが、現在ほとんどが住宅街になっています。城址碑がある公園はちょうどその中間あたりの川沿いです。



KDの城館探訪記

公園の中に、立派な城址碑があります。

隣には沿革を刻んだ石碑も。




KDの城館探訪記

住宅街と川との間に、公園としてわずかな空間が残されています。

実際の城域はこれよりはるかに広大でした。




KDの城館探訪記

利根川に注ぐ主要河川の一つ、烏川。

冬場でも水量は豊富です。まさに天然の水掘です。




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所在:群馬県高崎市倉賀野町

評価:


上杉・北条・武田の三氏の激しい戦いの歴史のあった場所で、城郭大系を見ても往時はかなりの規模の城郭であったことがうかがえます。しかし現在遺構はほとんどありません。

烏川に接する段丘上という立地に、要害性を感じ取ることができるのみです。

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コメント

1. 上野国の


重要な城だったんですね。

落城を繰り返していた事はそれを物語っているのでしょう。

2. Re:上野国の


>syunpatsuryoku1号さん

上杉・北条・武田三氏の勢力圏の最前線に位置しているため、戦略的重要性は高かったと思われます。

今となっては見る影もありませんが・・・(^_^;)

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KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
© 2010 城館探訪記

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