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長谷堂城② ~山形城防衛の最終ライン~

駒姫事件(→参考リンク )の後、豊臣政権に見切りをつけ徳川家康に接近した最上義光ですが、会津征伐のため兵を挙げた徳川軍は反転し、集まった奥羽諸侯は霧散、頼みの伊達も日和見という状況で、単独で上杉軍と戦う羽目になります。


慶長出羽合戦について、Wikiコピペ逝きます。


豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600年)6月に会津攻めのため出陣していた徳川家康が、下野小山において石田三成の挙兵を知って反転西上する。家康は南部利直・秋田実季・戸沢政盛・本堂氏・六郷氏・赤尾津氏・滝沢氏などを山形に集結させ、最上義光を主将として米沢口から会津に侵入するようにしていたという。しかし、家康は転進したため、奥羽諸軍は自領に引き上げてしまう。これにより上杉と対決する姿勢を示すのは義光だけとなり、家康の脅威が去った上杉景勝は、義光を攻略しようとした。最上氏を滅ぼせば上杉氏にとっては後顧の憂いが無くなり、家康と決戦に挑めるからである。逆に家康の反転と、伊達氏と上杉氏の一時的な和睦により山形に残された形になった義光は窮状に陥り、上杉方に嫡子を人質として送る等の条件で山形へ出兵しないように要請している。しかし義光が秋田実季(東軍)と結び上杉領を挟みうちにする形跡を知ったため上杉氏は激怒した。


慶長5年9月8日、上杉軍は米沢と庄内の二方面から、最上領向けて侵攻を開始した。上杉勢の大将は景勝の重臣直江兼続で、総兵力は2万5000人にも及んだ。米沢を出た上杉軍は萩野中山口、小滝口、大瀬口、栃窪口、掛入石仲中山口に分かれそれぞれ進軍した。兼続は萩野中山口を進んだ。それに対して最上軍の総兵力はおよそ7000人にすぎず、しかも居城の山形城をはじめ、畑谷城長谷堂城など多くの属城にも兵力を分散していたため、山形城には4000人ほどの兵力しかなかった。(ただし両軍の正確の兵数は不明。)


上杉軍は、9月12日に畑谷城を包囲する。この城は、最上軍の最前線基地であるが、城将は江口光清以下500人ほどに過ぎなかった。義光は江口に撤退を命令していたが、江口以下、城兵は命令を無視し玉砕を覚悟で必死に抵抗する。この時の事を、『最上義光物語』では、

「東西南北に入違ひもみ合。死を一挙にあらそひ。おめき叫て戦ひければ、さしも勇み進んたる寄手も。此いきほひに難叶。持楯かい楯打捨て。一度にとつと引たりける」

と、城兵側に激しい抵抗をつぶさに描いている。しかしやはり兵力の差はいかんともし難く、畑谷城はその日のうちに落城、江口は敵軍の中に斬り込んで一戦した後、自害して果てた。しかし江口の激しい抵抗は、上杉軍にも1000人近い死傷者を出させた。



我らがかねたんこと直江兼続には戦が上手いという印象は全くありませんが、畑谷城ではやってくれました。後世に捏造された義や愛の武将というイメージなど糞喰らえの、撫で切り(=一人残らずMINAGOROSHI)敢行です。

私などは正直、直江山城守、やる時はやるんだなあと感心したほどです。


その恐怖の直江軍が、ついに山形城目前まで迫ります。




KDの城館探訪記

主郭手前の、横矢が掛けられている登城路。




KDの城館探訪記

主郭虎口。




KDの城館探訪記

ちゃんと説明板もあります。




KDの城館探訪記
主郭の広さはなかなかのものです。

城址碑もあり立派。



9月17日、直江軍とは別に掛入石仲中山口を進軍してきた篠井康信、横田旨俊ら4000人が上山城攻めに取りかかった。守将は最上氏の家臣・里見民部であり城兵はわずか500ほどにしか過ぎなかったが、里見民部は善戦した。民部は城に籠もっていても芸が無いとばかりに、城門を開けて打って出た。上杉軍は一気に城兵を殲滅するため反撃に出た。城門付近で激戦が繰り広げられたが、上杉軍の背後から、最上軍が襲いかかった。民部は、あらかじめ少ない兵を分散し、最上義光が与力として増派した草刈志摩に別動隊を率いさせて城の外に出して待ち伏せをさせていたためである。背後を襲われた上杉軍はたちまち大混乱に陥り、最上勢はこの隙に上杉勢を激しく攻める。上杉方は木村親盛が坂弥兵衛なる者に討ち取られた他、椎名弥七郎をはじめとする将兵の多くが討たれた。一方、最上勢も広河原で追撃中の草刈志摩が鉄砲に撃たれて討ち死にしている。里見は上杉軍400人余りの首を義光に送ったとされる。この上山城攻めの苦戦で、掛入石仲中山口からの上杉軍は同時期行われていた長谷堂城の戦いで戦闘中の直江本隊とは最後まで合流することが出来なかった。


一方、庄内飽海方面では最上方の支援を受けて朝日山城に復帰した池田盛周等が一揆を起こし、酒田東禅寺城主志駄義秀と対峙したものの、精強な上杉軍を前に一揆勢は敗退し、志駄義秀は最上領深くの寒河江付近まで軍を進めた。




KDの城館探訪記
標高227m・比高約85mの独立丘陵で、周囲の見晴らしも最高です。




KDの城館探訪記

山形城方面。霞城の異名の通り少しかすんでいますが、ここからは目と鼻の先です。

この城が抜かれたら、近世城郭に大改修する前の山形城では2万超の大軍は防ぎきれなかったでしょう



この時、長谷堂城は最上氏の重臣・志村光安以下1000名が守備していた。攻め手は直江兼続率いる上杉軍1万8000人。通常攻城戦に必要な兵数は城方の3倍(確実を期すなら10倍とも)と云われているが、その点上杉軍は十分過ぎるほどの兵力を持って攻城戦にあたった。まず、兼続は大軍を背景に力攻めを敢行。しかし志村は寡兵ながらも巧みに防戦し、9月16日には200名の決死隊を率い上杉側の春日元忠軍に夜襲を仕掛ける。これにより上杉勢は同士討ちを起こすほどの大混乱に陥り、志村は兼続のいる本陣近くまで攻め寄って、250人ほどの首を討ち取る戦果を挙げた。この時の鮭延秀綱の戦いぶりには、直江兼続からも「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめ、後日兼続から褒美が遣わされたという。




KDの城館探訪記

合戦の経緯。拡大してどうぞ。



9月17日、兼続は武将の春日元忠に命じ、さらに城を激しく攻め立てた。しかし、長谷堂城の周りは深田になっており、人も馬も足をとられ迅速に行動ができない。そこへ最上軍が一斉射撃を浴びせて上杉軍を散々に翻弄した。業を煮やした兼続は、長谷堂城付近で刈田狼藉を行い城兵を挑発するが、志村は挑発には乗らず、逆に兼続に対し「笑止」という返礼を送ったとされる。


9月21日には、最上義光の甥でやはり東軍に与していた伊達政宗は、援軍として留守政景を将とした約3000の軍勢を遣わし、伊達勢は白石から笹谷峠を越えて山形城の東方に布陣した。一説には山形城が落城するまで傍観し、疲弊した上杉勢を討ち、漁夫の利を得ようとしていたともいう。しかしいずれにしても、伊達の援軍をあわせても、上杉軍の兵力における優位に変わりはなかった。一方、長谷堂城を守る志村光安はなおも善戦し、9月29日には上杉軍の武将・上泉泰綱を討ち取るという戦果を挙げた。


伊達政宗は最上義光の甥であり、さらに同じ東軍に属しているので当然最上に援軍を差し向けるかと思いきや、さにあらず。実はこの伯父と甥、あまり仲がよろしくない、というよりしょっちゅう争っていた間柄です。政宗からすれば、義光の事は心底どうでもよく、それどころか疲弊したところを漁夫の利を狙いたい、とさえ考えていました。しかし、義光はどうでもよくても、山形城にいる自分の母(=義光の妹・義姫)だけは助けたい、ということでとりあえず形だけの援軍を送ります。さすがは政宗・・・




KDの城館探訪記
南側へと延びる登城路。主郭側を振り返って撮影。

この写真の右手には春日神社があり、ここも郭跡でしょう。




KDの城館探訪記
南へ進むと、十字路です。真っすぐ行ってみましょう。




その③へ

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コメント

1. 山形城と


奥羽山脈を見る事ができますね。

確かに、この城を奪われると、山形城は丸裸だと、登った時に思いました。

伊達勢が一応救援にきたとの事ですが、この城如何によっては去就を…と思ってしまいます。

2. Re:山形城と


>syunpatsuryoku1号さん

山形城は平城ですし、この時点ではまだ現在に残るような大規模な石垣なども整備されていなかったので、攻められたらまずもたなかったと思います。

伊達軍はしたたかというか、めちゃくちゃというか・・・それが政宗らしいところなんですけれどね。

3. かねたんは戦下手ですよね(笑


私もかねたんは戦下手だと思いますよ。
いつでも玉砕覚悟!のイメージがあります。

長谷堂を落としたら山形城まで一直線ですが、まだ上山城も落とせてないので、仮に長谷堂を落とせてもすぐには山形城は攻められなかったと思いますよ。
北側もまだ包囲出来てなかったし。
上山城を後詰めにすれば対伊達の牽制もできたと思うんですけどね。
最上領の南北に延びる防衛ラインを崩せなかったのが、この戦いの最大の敗因でしょうね。
時間があれば落とせたんでしょうけども…。

かねたん、なんかツメが甘いんですよねー。

4. Re:かねたんは戦下手ですよね(笑


>くぎやんさん

かねたんは某大河のせいでなんか存在自体胡散臭くなってしまいましたが、官僚としては優秀であったと思います。特に脳味噌筋肉族の多い戦国期において、内政・外交・財政をを取り仕切った能力は特筆に値します。「義」や「愛」よりも「利」を求める人物だったような気が。

ただ戦場指揮官には向かなかっただけで。

参考画像 
http://blog-imgs-21-origin.fc2.com/y/a/m/yamagata6/hasedo05.jpg

上杉側から見ると、志駄義秀ら庄内勢はかなり順調だったのに、かねたん率いる本隊がちょっと遅すぎでしたね。正直総大将は本庄繁長が適任だったと思います。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
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