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会津若松城④ ~なれし御城に残す月影~

1868年(慶応4年)戊辰戦争において、会津勢の立て篭もる若松城は1か月の間持ちこたえ、板垣退助勢に、薩摩の援軍の助けをかりても遂に城は落ちなかったが、その後開城された。戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置されたまま破却を迎えている。

損傷した若松城(会津戦争降伏後に撮影)


天守は大きく破損しましたが、焼失することも無く、自ら開城するまで一兵の敵も城内に入れることはありませんでした。蒲生氏郷や加藤明成の縄張りの設計がいかに優れていたかを示したことになります。また、近世城郭の中で、熊本城と並んで実際の戦闘を経験した数少ない城の1つとしても特筆できます。


しかし、新政府としては会津若松城をそのまま残しておくことは、反政府へのシンボルとなる恐れもあり、また現実問題として被害が著しかったこともあったことから、明治7年に天守その他の建造物は取り壊されました。


長州藩の萩城などは廃城令に従い天守を解体しているので好感が持てますが、同じ新政府軍の土佐藩高知城は天守を破却せずそのままですね。自ら旧体制の象徴として天守破却を指示しておきながら、自分のところだけ残しておくというのはいかがなものかという違和感がずっとあります。私が現存天守を模擬天守と同等に扱うのには、こういった違和感が根底にあるのも理由の一つなのかもしれません。


まあ高知を訪れた際は喜んで見学しますけどね。




KDの城館探訪記

表門(鉄門)。

多門櫓城門で、石垣の仕様は切込ハギです。




KDの城館探訪記

鐘撞堂。時守を置いて昼夜時刻を城下に報じていた。

戊辰の役にはここに西軍の砲火が集中し、時守が相次いで斃れたにもかかわらず、開城の最後まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞したといいます。


登る階段はとんでもない急勾配です。




KDの城館探訪記

鐘撞堂から、現在駐車場となっている西出丸方面を見て。

本丸へ続く虎口は、ご覧の通りの巨大な石垣に両側を挟まれ、攻め手としては圧迫感がすごいことでしょう。




KDの城館探訪記

天守を振り返って。

桜の開花にはまだ2週間ほど早かったようですが、ふくらみかけもなかなかいいものです。

満開になったらさぞ綺麗なんでしょうね。




KDの城館探訪記

北出丸にある武徳殿。中では達人風の人が日本刀を抜刀して居合(もしくは演武)を行っていました。しばらく見入ってしまいました。写真中央の男性も同じように見入っていますね。私ではないですよ(笑)


ここ北出丸は「みなごろし丸」という異名を持っています。


戊辰戦争の最中、土佐兵を先鋒とした新政府軍は一挙に鶴ヶ城を落城させるつもりで攻め寄せた。兵器の優劣は論ずるまでもない。会津側の戦闘員は老人と少年および未熟の急募兵、それに二百人ほどの客兵(水戸脱走兵)がいた程度である。これに対して新政府軍側は千軍万馬の強者ぞろい、しかも時勢に乗った軍隊である。それなのに、どうしてもこの門(北出丸大手)を抜くことができなかった。夜陰に及んでもついに北出丸を侵すことができず、板垣の親友で勇将のほまれ高い大総督府軍監牧野群馬(小笠原唯入)と土佐藩三番隊長小笠原謙書の兄弟が、追手門前で戦死した。北出丸の石垣から雨霰(あめあられ)と銃弾を浴びて、文字通り「みなごろし」の目にあったからだ。落城を免れた城に、それから会津軍は一ヶ月にわたって籠城することになる。



KDの城館探訪記

大手桝形の巨石。加藤氏が城主の時代に大手を東側から北側に変え、整備しました。

加藤氏の説明をしていませんでしたが、加藤明成はもともとあった北馬出・西馬出という2つの大きな馬出を増強し、北出丸・西出丸へと改築しました。これによりこの城の防御力は一段と上がりました。

この桝形は敵を三方から(場合によっては四方から)攻撃できる利点があります。「みなごろし丸」の名は伊達ではない凶悪な防御空間です。




KDの城館探訪記

参考までに縄張図。第1回目に出すべきでした・・・




KDの城館探訪記


以前TBSのクイズ番組で、「明治元年の戊辰戦争の際、会津若松城に籠城した人たちが、城を明け渡した、とんでもない理由とは?」という問題の正解が「何と、糞尿が城に溜まり、その不衛生さから」とされ、市民などから市役所に猛抗議があり、TBSは非を認めて謝罪放送を流した、というちょっとした事件がありました。


まあ市民の方からすれば文献などの裏付けもなく侮辱されたようなものですから抗議するのも頷けますが、実際内部の問題でも生じない限り落城させるのは難しい、それほど素晴らしい縄張りの城です。


会津若松城にしろ熊本城にしろ、あるいは中世の小田原城にしろ、圧倒的大軍を前にしても最後まで「落城」はしていないんですよね。これぞ「城郭」の真骨頂といえます。

しかるに史上最強クラスの城郭である大坂城が大坂の陣で落城してしまうのは、よっぽど攻め手が上手かったのか、守り手がへぼかったのか・・・それはここでは関係ないか。


パンダ


会津戦争籠城戦では、少年兵や老年兵のみならず女性たちも戦いました。

天守内にもその模様が展示されていましたが、炊き出しや仕込みはもちろん、武器弾薬の補充や傷病兵の救護、さらに自ら武器をとって戦場へ出撃するものも現れます。


その美貌で家中に知られていた中野竹子(藩士中野平内の長女)も、その一人であった。奮戦むなしく倒れた彼女は、妹の優子に介錯を命じた。薙刀に、辞世をしたためた竹子のこんな短冊が結ばれていた。


もののふ(武士)の猛(たけ)き心にくらぶれば、数にも入らぬわが身かな


ちなみに上記の辞世の句で検索すると、この場では書けないような惨劇を紹介しているサイトがあります。

戦場ではよくあることなので善悪の判断はしませんが、現在のトレンディードラマ化した大河ドラマではたとえ地球が爆発しても取り上げられることはないことだけは確かです。



もう一つ、有名な句。


明日の夜はいずこの誰かながむらん なれし御城に残す月かげ




KDの城館探訪記

三の丸跡に戻ってきました。
その①の1枚目の写真で何やらやっていたイベント、まだ続いています。


やきとり長さ世界一挑戦イベント

「会津地鶏」対「長州とり」のやきとり戊辰対決!!


こういった対決はどんどんやってもらいたいですね。

世界一ということは、ギネスブックに載ったりするのだろうか・・・




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登城日:2008年4月13日  所在:福島県会津若松市追手町

評価:★★★★★


久々に出ました、五つ星!老若男女、素人に玄人、みんなにおすすめの大城郭です。とにかく出丸の配置が素晴らしい。また、今回写真は掲載していませんが、北出丸と西出丸の外側から眺めた水掘も超おすすめです。

周辺には史跡も多く、城郭ファンも幕末ファンも楽しめますね。
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コメント

1. 縄張図


何時になるか判らない再訪の際に参考にさせて頂きますm(_ _)m

会津は4月13日時点でもまだ桜が開花していないんですね。
日本列島の長さを感じます。

2. Re:縄張図


>syunpatsuryoku1号さん

桜の開花については、今年の開花情報を参考にしました。今年は4月26日には満開になったようです。

再訪の際には、ぜひ出丸を確認してみてください。本丸の周囲を一周なんてのもいいかもしれません。

3. 無題


TBS嫌いです・・・。何を伝えたかったんでしょうかね?このお城の堅ろうさを伝えたいのなら、KDさんのブログを学べという感じです(お世辞でなく)。行きたいですねぇ~近世の兵器に持ちこたえる何て凄い城です。小田原城も凄いですよね。大阪城は、やはりお堀を埋められたのが痛かったんじゃないですかね?

4. Re:無題


>かすさん

かすさんにそこまで言われると恥ずかしいやら恐縮やらです。基本的には登城時に感じたことをダラダラと書くだけのブログですが、今回は少し歴史背景にも力を入れてみました。
近世の兵器にも耐えた、スゴイお城です。

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Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
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