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会津若松城③ ~恐妻家秀忠の隠し子~

1601年(慶長6年)には、蒲生秀行が再び入城したが、1627年(寛永4年) 嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。代わって伊予松山城より加藤嘉明が入封。子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、1611年(慶長16年)に起きた会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組みなおさせている。

1643年(寛永20年)加藤明成は改易され、出羽国山形より3代徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平氏(保科氏から改名)の居城となった。


ねこへび


保科正之について説明しようとすると、来年の大河の主人公である浅井三姉妹の三女・お江と、徳川家康の三男、秀忠が結婚するところから始めなければなりません。


このとき秀忠17歳、お江23歳。今の感覚では23歳など若い盛りもいいところですが、この当時の感覚では既にトウが立っているところです。14歳で中納言に任官し、のち2代将軍となる秀忠にとって少々条件が悪すぎの気もしますが・・・(例えるならエリートで財閥のトップの跡取りのおぼっちゃまが、年増でバツ2・おまけにコブつきと結婚するようなものですからねえ)・・・と思いきや、二人の夫婦仲は良好で、家光や千姫をはじめ、多くの子供に恵まれます。織田と浅井の血を汲むお江、並々ならぬ魅力があったのかも。


秀忠は恐妻家であり、正室のお江の方には頭が上がらなかったとされている。気性の荒い妻の影響で側室を持つことが許されなかったという俗説が一般的だが、秀忠はお江の方を愛し敬い、彼女もそれだけの魅力のある女性ではあったようだ。一度だけ江戸城の女中だった静に手を出した際も、正室からの追求を恐れて、静を正式の側室にはしなかった。生まれた子供(保科正之)にも一切面会せず、そのまま保科家に養子に出し、江の存命中は正之を実子として認知することもなかった。


来年の大河で、このあたりをどのように描写するのか楽しみではありますが、おそらく陳腐なホームドラマ化してしまうのでしょう。最初から期待しない方が精神衛生上よろしいというのは天地人で学習しました。



閑話休題。



秀忠の死後、第3代将軍家光はこの謹直で有能な異母弟・保科正之をことのほか可愛がります。そして正之を23万石の大名に引き立て、奥州の要衝鶴ヶ城に入れます。この後明治維新まで、かつては江戸の背後を牽制した地で、江戸の背後を守る役割を果たし続けることになります。


正之は『会津家訓十五箇条』を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍と戦った。


会津藩が最後まで佐幕派としての立場を貫きとおしたのにはこういった経緯があるのですね。




KDの城館探訪記

天守から下りてきました。100名城スタンプは出口手前の売店にあります。危うく素通りして出てきてしまうところでしたよ。

それにしてもこの天守、出口側から入るとノーチェックで中に入れてしまうのでは・・・?

客が少なければさすがにバレバレだろうけど、混雑してる時はどうなんだろう・・・

ちゃんと入場料を払っている人が馬鹿を見ないように、チェックはしっかりしていただきたいです。




KDの城館探訪記
天守と走り長屋(北側)。

左端に僅かに見えるのが鉄門で、その左手前にも走り長屋(南側)が伸び、干飯櫓へと続きます。




KDの城館探訪記
本丸南隅から、高さのある水掘。
奥に見えるのが干飯櫓です。中にも入れますが、写真は撮り忘れました。ごめんなさい。




KDの城館探訪記

本丸周囲は一段高い土塁によって囲まれています。

堀沿いに東へ移動すると、月見櫓です。

武器が収められていた処であったが、城内からの月見の場所としては絶好の櫓であったことから、この名前が付けられたとのこと。内堀牛沼沿の本丸石垣の外部の横矢掛りとしても重要な櫓であった。




KDの城館探訪記

さらに進むと、茶壷櫓に出ます。貴重な茶器類が収められていたのでこの名が付きました。北側の石垣は高さ20m余りで、城内では最も高く美しい扇勾配をなし、「忍者落とし」ともいわれています。




KDの城館探訪記
これがその石垣。ってここはその①で廊下橋から眺めた場所ですね。

こちらから見ると、廊下橋の横矢掛りとしてとても重要な櫓であったことが実感できます。




KDの城館探訪記

茶壷櫓から本丸を望む。手前にあるのは本丸御殿内にあった茶室「麟閣」です。




KDの城館探訪記

これがその「麟閣」。なにげに県指定重文です。

外国人の団体さんが出てきました。




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コメント

1. 会津松平家の家訓


そういった家訓がしっかりと守られるというのは素晴らしいことだと思います。負けると解っていても決して信念を曲げないことはとても難しいことです。立派な家だなと思います。

2. Re:会津松平家の家訓


>かすさん

日和見だったりすぐ恭順したりという藩がほとんどだった中、ぶれない意思を示しとおしたのは立派だったと思います。

旧体制の側にも正義と理念があったのを忘れてはいけません。

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KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。
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