記事一覧

2日目終了~3日目開始

5/26に本編掲載開始した「第2次北東北遠征編」、8月に入った現在までに消化できたのはようやく2日目終了時点まで。在庫がデータ消滅事件以来最大級に溜まってきているので、なんとかペースを上げていきたいところです。ということで道の駅くじを出た後から翌日の最初の訪問地までをダイジェストにて。道の駅にて600円分の食材を半額程度で購入しましたが、お酒を含めもうちょっと食料を確保したいので、久慈駅そばにあるスーパーで...

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道の駅くじ やませ土風館

久慈城を後にし、久慈市街地に戻ってきました。道の駅くじ充電のため立ち寄り(方法は企業秘密)。デジカメ再稼働したのでついでに内部も見学します。...

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立山巡礼登山編 プロローグ

雨の雄山神社 峰本社※今回の探訪記に城館の記事は登場しません今年の夏の大きなイベントの一つとして前々から計画していた立山登山。当初7/1に行う予定でしたが、その日は荒天が確定しており、一度延期をしたという経緯があります(栃木・福島マニアックス序文参照)。立山は日本三霊山の一つに数えられる信仰の山で、山頂には雄山神社の峰本社が鎮座します。立山は観光地としても有名で、(公財)日本交通公社の「観光資源台帳」...

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第30回 潰されざる者

武田との戦が避けられない情勢となった駿府では、今川氏真(尾上松也)が国衆を呼びつけ戦の準備を命じていた。直虎(柴咲コウ)も徳川との内通をひた隠しにしながらこの命令に応じる。また氏真は方久(ムロツヨシ)が気賀に新しい蔵を作ることを認める代わりに、井伊家を取り潰す手助けをするよう求める。徳川との戦に備え、要衝の地である井伊谷を今川の直轄領にしたいと考えたのだ。井伊と今川の板ばさみに悩む方久。その不自然...

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久慈城 ~久慈氏の居城、九戸政実の乱で破却~

宇部館・野田通代官所からR45を北上し久慈市街地へ。R281に乗り換え西に進み、久慈川を渡ると国道沿いに久慈城の入口看板が設置されています。看板を曲がり大川目小前を通過すると、正面の丘陵が近づいてきます。天気が・・・上の写真真正面の丘陵先端に久慈城は築かれました。現時刻は17:45。時期的に晴れていればまだ明るい時間帯ですが、曇り空+妙な靄に覆われ視界は不良。なんか気が滅入る暗さです。...

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野田通代官所 ~盛岡藩行政組織「通制」~

宇部館の説明板が設置されている場所と同じところにもう一つの石碑があります。寛文年間 南部藩代官所跡之碑寛文4年(1664)盛岡藩(南部藩)と八戸藩が分かれた後、盛岡藩が野田通に設置した代官所の跡地。宇部館の南側の裾部に置かれていました。...

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宇部館 ~野田氏初期の居館~

伏津館からR45を北へ進み、野田村から久慈市の宇部地区へ。宇部地区の中心部近く、宇部川とその支流の北の越川に挟まれた丘陵の先端部に築かれたのが宇部館です。丘陵先端下にある説明板この説明板の手前は住宅街となっており、駐車スペースはありません。住宅地の奥に入る道の手前で路駐するのがベターと思われます。私は周辺住民の迷惑にならないように注意しつつ、かつできるだけ近くに停めるということを両立させるために相当...

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伏津館 ~伏津新九郎忠信の居館か~

思惟大橋からはやや先を急ぎます。最近開通した三陸北道路(尾肝要道路)を使ってR45最高地点である閉伊坂峠(標高380m)をパス。続いて「北緯40度東端の村」普代村へ。ここも海岸線が魅力的なところですが、天候の都合上もう海岸には寄らないと決めてしまったのでスルーします。探索はまた次回に。さらに北上し野田村に入ります。浄土ヶ浜のビジターセンターで大量に入手したパンフは宮古から田野畑・普代・野田・そしてこの先の...

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たのはた物語 思惟大橋

鵜の巣断崖からR45に復帰し北上再開。ほどなくして現れるのが「道の駅たのはた」。「たのはた物語の碑」の案内表示が目に入ったので、ちょっと小休止して立ち寄ります。道の駅たのはた...

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第29回 女たちの挽歌

直虎(柴咲コウ)は徳川家康(阿部サダヲ)に書状を送り、上杉と同盟を組んで武田の今川攻めの動きを封じ込む策を進言する。いったんはこの策に乗ろうとした家康だったが、時を同じくして武田から今川攻めの誘いが来てしまう。その頃、駿府では寿桂尼(浅丘ルリ子)が死の床についていた。松下常慶(和田正人)は井伊と徳川の同盟の証として、しの(貫地谷しほり)を人質に出すよう要求するが…。直虎からてんまつを告げられたしの...

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鵜の巣断崖

浄土ヶ浜からR45に復帰し北上再開。すぐに右手に「国指定史跡 崎山貝塚」の表示と大きい施設が現れ、入ろうかどうしようか一瞬迷うも、今回はスルー。少し進むと旧田老町地区。宮古市との合併前は「津波防災の町」を宣言しており、町を取り囲む防潮堤は「万里の長城」の異名を持つほどの巨大な規模であったが、3.11の津波では一瞬で倒壊、町の中心部は全滅状態となりました。この防潮堤はドライブマップにも記載されており、震災...

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浄土ヶ浜

とどヶ崎へ到達したことで、本日のメイン行程は終了。この後しばらくは特に訪問場所を定めておらず、明日は青森に入って根城や七戸城を探訪しようと漠然と考えている程度。余裕を持たせるために今日のうちにできるだけ陸中海岸を北上しておきたいところですが、陸中海岸はそれ自体が景勝地であるため、道中いくつかの有名スポットには立ち寄っておこうと思います。まずは重茂半島のr41北側区間を北上。この区間は狭路ではあるが南...

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本州最東端 とどヶ崎(後編)

魹ヶ埼灯台北海道に向かう船舶にとって、大きな目印になる灯台であり、三陸海岸にある灯台の中でも一際明るい。南から魹ヶ埼灯台を過ぎると、間もなく宮古湾が大きく口を開け、夜になると、湾奥に美しい宮古市の夜景を見ることができる。1957年(昭和32年)に発表された映画『喜びも悲しみも幾歳月』(木下惠介監督)は、魹ヶ埼灯台で7年間を過ごした灯台守の妻である田中キヨの手記をもとに製作された。日本の灯台50選の認定を受...

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本州最東端 とどヶ崎(中編)

デジカメと飲み物だけという必要最小限の装備で出発。少し進むと「落ちそうで落ちない浮玉」という表示がありますが、どれのことかわかりません。後日調べたところ、大津波で木の枝に引っ掛かった浮玉が頭上にあったらしい。現地では気付きませんでしたが、改めて写真を調べてみると、ちょうどこの場所でそれっぽいものが写り込んでいました。あんな高さまで波が来たのか・・・...

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第28回 死の帳面

気賀の城主となることを認められた直虎(柴咲コウ)は、方久(ムロツヨシ)に城代を任せることで商人の自治を保障する。危篤状態からの復活を遂げた寿桂尼(浅丘ルリ子)は甲斐の武田信玄(松平健)のもとを訪れ、武田家に嫁いでいた氏真(尾上松也)の妹・鈴(岸茉莉)を駿府に返すよう要求する。寿桂尼はさらに北条氏康を味方につけ、武田への圧力を強める。北条の仲立ちによって今川と武田の争いはいったん落ち着くが、寿桂尼と...

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本州最東端 とどヶ崎(前編)

大槌城を後にし、今回の遠征の大きな目的地の一つ、本州最東端・とどヶ崎へと向かいます。漢字名称は「魹ヶ崎」「魹ヶ埼」。「とどヶ崎」「トドヶ崎」という表記もあり、それぞれ間違いではないようですが、ここではwikiでの見出し表記である「とどヶ崎」で以下統一します。※ちなみにこれまで到達済みの「本土最突端16岬」は以下の通り北海道最東端・納沙布岬(本土最東端)北海道最南端・白神岬本州最南端・潮岬四国最南端・足摺...

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大槌城② ~三陸沿岸最大級の山城~

現地説明板にあるとおり大槌氏初代は阿曽沼氏一族の遠野次郎とされますが、南北朝期には宗家遠野阿曽沼氏が南朝方として戦っているのに対し大槌氏は北朝方として行動しています。建武~正平年間に遠野次郎を当地に派遣したというのが正しければ、その後かなり早い時点で両者は袂を分かったということになります。あの時代は観応の擾乱に代表されるように親子や兄弟でもそれぞれころころと別の勢力につくことが多々あるので、ここで...

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KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。毎日生野菜摂取しないと死ぬ。
© 2010 城館探訪記

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