記事一覧

岡城① ~豊後竹田の百名城~

宮崎は西都から大分は竹田まで、ひたすら爆走。結局宮崎県はほとんどの区間を素通りしてしまった。次回は楽して宮崎空港まで飛んで、周辺をじっくりと探訪することにしましょう。次なる目的地、というか本日のメインである岡城に到達したのは15:30。九州遠征全体においても特に楽しみにしていた城の一つです。 広い駐車場は無料。ここは城の総役所跡であるという。昔は入城無料であったそうですが、今は入城料300円を徴収されま...

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都於郡城③ ~浮舟の城~

西ノ城を後にし、続いて三ノ丸へ。三ノ丸への登り口。...

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都於郡城② ~伊東マンショ生誕の地~

本丸の一部分について発掘調査を行った結果、多数の柱穴が検出され、伊東氏が在城した240余年間、建造物が何回となく建築補修されたと考えられています。また、16世紀前半に輸入されたと思われる中国製の磁気片も多数出土しており、南方貿易にも尽力していたことが推察されます。この時期は飫肥地方にも勢力を伸ばした10代城主伊東義祐の時代にあたります。鳥瞰縄張図この城は城域が広い反面パンフレットやマップが備わってないの...

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都於郡城① ~伊東四十八城本城~

都於郡城は南北朝時代から安土桃山時代にかけて日向国に割拠した伊東氏の城の一つ。1335年(建武二年)、足利尊氏より都於郡三百町を賜って日向に下向した伊東本宗家の祐持による築城といわれ、一国人領主にすぎなかったころよりの本拠でもある。城は高さ100mの丘陵に築かれた本城、周囲に支城(日隠城、東城、泉城、高城、向城)を配し、その間を堀や池を巡らすという中世式城郭の典型的な様式である。なお本城から峰続きに1.3km東...

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佐土原城③ ~日本最南端の天守台~

本丸の中央に碑や設置物があるのですが、周辺に所々沼地になっている部分があり、迂闊に近づくと悲惨なことになります。膝丈以上の長さにまで草が覆い茂っているので、下の様子が余計にわかりません。 沼に注意!                            本丸標柱...

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佐土原城② ~伊東四十八城要の城~

14世紀半ばごろに伊東氏の一族田島休助によって田島城として建てられた。1427年頃、田島氏は日向国に勢力を伸ばしてきた伊東氏から城を追われ、伊東祐賀が入城。佐土原氏を名乗る(このころから通称として佐土原城とよばれだした)。 さらに1480年に伊東本家筋から伊東祐国が佐土原氏の養子に入り、正式に伊東氏が田島城(佐土原城)を支配。伊東四十八城の一つに位置づけられた。1536年に焼失。1542年から1543年に、田島城(佐土...

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佐土原城① ~鶴松館で事件発生~

9月27日。九州遠征7日目。天気は薄曇りながら暑い。今日も午前中から真夏日確定。勘弁してほしいです。本日は移動距離的に一番ハードな日程。私は遠征時には細かいスケジュールを立てない事が多く、よく言えば臨機応変ですが、悪く言うと行き当たりばったりなところがあります。今回の旅も前半(佐賀のあたり)で時間をとりすぎたため、後半にしわ寄せがきている感じです。宮崎県でもたくさん探訪したい城はありますが、今回は特に...

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飫肥城③ ~パワースポットと重伝建~

 旧本丸内のマウント状の地形。周囲には一部残存土塁あり。...

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飫肥城② ~伊東氏・島津氏争奪の城~

飫肥城(おびじょう)は、日向国南部(現在の宮崎県日南市飫肥)にある日本の城である。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄した。飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城である。飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院とも呼ばれていた。時代は下って長禄2年(1458)九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、鎌倉時代から日...

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飫肥城① ~スタンプ入手ならず・・・?~

100名城の一つ・飫肥城に到着。この時私は焦っていました。大手門交差点で赤信号待機中。時刻は16時53分。そうです。城の見学は明るいうちなら何時まででもできますが、100名城スタンプを押すには設置している施設の営業時間を考慮しなければなりません。スタンプラリーが始まって初期のころは24時間押印自由のスタンプも数か所ありましたが、現在はそういったところはたぶんないはず。...

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東九州道曽於弥五郎ICにて。看板のブラインドに隠れて待ち構えている車。この車に乗る男がすれ違いざまこちらの顔を確認し、背後にぴったりとつけてきた。...

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隼人城 ~舞鶴城の詰めの城~

伝承に隼人城は熊襲・隼人の居城であったといわれ、発掘調査でも縄文・弥生期から古代にかけての住居跡や石器・土器類をはじめ、炭化した籾などが多く出土している。応永年間(1394~1428)の頃、隼人城には税所左馬助淳弘が居城したと伝えられている。慶長九年(1604)、島津義久が当城の南麓に館(舞鶴城)を築いて、富隈城から移ってきた時、当城も義久の城塞となった。(『日本城郭大系』より抜粋)舞鶴城と隼人城の位置関係。...

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舞鶴城 ~島津義久最後の居城~

舞鶴城は、別名国分城、国分新城、国分御屋形。国分小学校および隣接する国分高校一帯が城域になります。小学校南面を流れる堀跡の水路。石垣も立派。左手の灯篭には島津義久が詠んだといういろは歌が刻まれています。...

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大隅国分寺跡

国分小学校の西側に、石塔などが建っている広場があります。大隅国分寺跡聖武天皇の命で全国におかれた国分寺の一つ。発掘結果から奈良時代末期から平安時代初期に建立されたと思われる。早くに衰微し、幾度か再建はされたものの元禄年間の再建が最後で、明治2年の廃仏毀釈で廃寺となった。1921年(大正10年)3月3日に大隅国分寺のものとされる石塔など周辺が国の史跡となった。また、数回の発掘調査で創建当時の物と思われる奈良...

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富隈城 ~島津義久の隠居城~

文禄4年(1595年)、豊臣秀吉により強制的に隠居させられた島津義久はそれまで居城としていた内城を退去する事態に追い込まれ、急遽薩摩国と大隅国の境にあり、港が近くにあるこの地に屋形を築いた。これが富隈城である。通常島津氏の城は裏山に後詰めの山城があるが、この富隈城にはそれに当たる物が無く、秀吉に対して恭順の意を表したとも、或いは秀吉に圧力を掛けられたとも言われている。周囲は南北250m、東西150m、高さ30m余...

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鬼嫁太平記

今週もくだらない内容だった。何がですって?大河ドラマですよ。ああ、もう皆さんとっくに見ていませんでしたか。これは失礼。様々な最低視聴率の記録を次々と塗り替えているのが見どころの今作。今年は裏にオリンピックもワールドカップもない恵まれた環境なのにこの体たらく。単回最低視聴率更新と年間平均視聴率一桁の大記録達成を目標に頑張りましょう。話題は来年へ。小松姫プロジェクトこのプロジェクトは2013年のころから注...

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KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。毎日生野菜摂取しないと死ぬ。
© 2010 城館探訪記

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