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記事一覧

第38回 「平家にあらずんば人にあらず」

後白河法皇(松田翔太)と宋人との面会を成功させた清盛(松山ケンイチ)は、宋船を福原に直接、入港させようと考える。そのため、大型船が入れるように大輪田泊(おおわだのとまり)の改修工事を兎丸(加藤浩次)に急がせる。そのためには波よけの堤防が必要だったが、兎丸はその工法が分からず、試行錯誤を繰りかえしていた。京では、清盛から「都でつとめを果たしてくれ」といわれた時忠(森田剛)が、「禿(かむろ)」と呼ばれ...

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第37回 「殿下乗合事件」

新しき国づくりをめざす平清盛(松山ケンイチ)は、宋との交易の窓口を大宰府ではなく福原にするため、宋の要人を福原に招くことを考える。さらに正式な国交を開くため、その場に後白河法皇(松田翔太)にも列席してほしいと願う。宋から要人を招くためには、貢ぎ物として金(きん)が必要だった。そこで清盛は、奥州を治める藤原秀衡(京本政樹)を鎮守府将軍という要職につけ、その見返りに奥州特産の金を入手することに成功する...

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第1次北東北遠征 目次

これまでほとんど訪れていなかった北東北3県の地を巡る今回の旅。丸2年ぶりくらいに純粋に城攻めを楽しむことができました。訪れた城館は以下の通り(訪問順)。...

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お知らせ

9月末のこの時期、例年恒例となっている遠征に出陣するため、今年も一週間ほど消えます。平清盛 第37回「殿下乗合事件」の感想は来週の土曜か日曜に掲載予定です。...

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箱崎城 ~藪に沈む~

旧新治村役場の背後、西方より続く台地の先端が鉤形になっている部分に築かれたのが箱崎城です。城の西から南は須川川が流れ天然の堀となっており、城の東で赤谷川と合流します。そして赤谷川沿いには三国街道が続きます。要害地形と交通の要衝を上手く抑えた立地といえます、天文10年(1541)以後、布施の地侍衆原沢大蔵が守り、森下又左衛門が城代をつとめたこともある。(「須川記」参照)ちなみにこの城、ネットで登城記を掲載...

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名山城 ~松井田・安中繋ぎの城~

安中市郷原にある名山城。碓氷川・九十九川の間が最も狭くなったところを抑えて築かれており、城主は安中氏。松井田城・安中城のつなぎの役割の城とされています。訪城は2009年。当時は(たしか)ネット上に登城記は無く、文化財情報システムの地図を頼りに現地へ。近くに「カヤ工業」という工場があるのでそれを目印にするとよいと思います。城への登り口がわからず、とりあえずシステムで城表示のある山の北側へ。この写真左手奥...

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萩の城 ~前橋藩主の位牌寺~

「前橋市史」や「群馬県古城塁址の研究」に記載があるものの、城主等詳細は不明。前橋市昭和町にある森厳寺付近が城址。文化財情報システムにも表示があります。森厳寺。城郭大系には三方に堀跡があるというが、完全消滅しています。(あるいは道路になったか)...

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下斎田城 ~現役の水堀~

高崎市史No.1292009年春訪問。築城者は田口氏。現在も子孫の方が住まわれています。場所はR354八幡原町交差点北側。文化財情報システムを参考に現地に向かうも、例によってシステムの表示箇所がずれている。システム表示箇所を一生懸命観察しても、どう見ても新興住宅街にしか見えない。ふとすぐ隣の区画に目をやると、立派な水堀に囲まれたお宅があります。こちらが戦国時代の下斎田城の本郭部分になります。縄張図を見ると当時...

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第36回 「巨人の影」

京の鞍馬寺では、源義朝の子・遮那王(神木隆之介)が修行に励んでいた。この遮那王こそ、後の義経である。遮那王の母・常盤(武井咲)はあえて遮那王に自分の父が源義朝であることや、平清盛(松山ケンイチ)が父の敵であることを教えていなかった。それは遮那王を戦乱にまきこまないための配慮だった。1169年清盛は福原(神戸)の別邸に後白河上皇(松田翔太)を招き、千僧供養をおこなった。大勢の僧たちの中心には、僧侶たちを...

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八幡原館 ~安達盛長の館~

高崎市史No.131引き続き、2009年春に探訪した城館の掲載。遺構は残るが表示物がないため、これまで掲載を見合わせていた城館群です。八幡原館は上野国奉行人(守護)の安達氏の館と伝えられています。初代は鎌倉幕府創業の功臣・安達藤九郎盛長。現在放送中の大河でも塚本高史さん演じる藤九郎が登場していますね。源頼朝が挙兵した際、新田義重は自分こそ源氏の嫡流であるとしてこれに従わず、上野国寺尾に独自に兵を集めます。の...

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稲荷城② ~変形五角形土塁~

その①虎口から入城すると、土塁に囲まれた平場に出ます。ここが主郭内です。館を建て生活するには充分の広さで、有事の際にもそこそこの兵力を駐屯させることができそうです。一つ残念な点は、ここにも城址碑・標柱・説明板といった表示物の類がまったくないこと。...

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稲荷城① ~吾妻氏在城~

吾妻太郎助亮が建久年間(1190~99)に居住していたと伝わる。その子助光も居城したというが、承久三年(1221)の承久の乱に際して宇治川で討死し、同族の下河辺行家が吾妻氏を継承した。行家の子・吾妻庄司助行重もまた稲荷城に住んだと伝わる。また吾妻四郎助光が宇治川で戦死した後、吾妻氏の実権は家臣の大野・塩谷・秋間三家に移ったが、大野憲直の時、塩谷・秋間両氏を圧倒して岩櫃に新城を築いて移ったという。(城郭大系等...

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第35回 「わが都、福原」

1168(仁安3)年2月。死の淵(ふち)から奇跡的に生還した平清盛(松山ケンイチ)は、第二の人生に踏み出した。その手始めに、比叡山延暦寺を収める僧侶・明雲(腹筋善之介)を呼び、明雲の導きで出家したいと依頼する。明雲は昔から朝廷への強訴などで敵対することが多かった山法師の自分になぜ頼むのかと清盛に尋ねると、白河法皇も手に負えなかったという山法師と今後は協力関係を築きたいからだと語った。そして清盛は明雲の手...

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麻場城③ ~不思議な土塁~

その②二郭西側。こちらにも虎口があります。...

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麻場城② ~「常山の蛇」陰の城~

その①400mを隔てた麻場・仁井屋両城からなる典型的な別城一郭の城であり、その拠る所は孫子の「常山の蛇」である。高崎城では一城内にそれが具現され、ここでは二城間にそれが成立している。武田信玄が風林火山の旗を翻して戦ったように、孫子の思想が武将・築城者を強く指導していたことがうかがわれる。『関東幕注文』中の小幡道佐は、「生島足島起請文」中にも現われ、麻場城近く墓のある白倉道佐のことであって、白倉氏は小幡一族...

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麻場城① ~上州八家・白倉氏居城~

麻場城は、甘楽町の東北丘陵地帯の舌状台地上の先端部に立地した丘城である。当城は、この地の豪族白倉氏の居城であり、約500m東方にある仁井屋城と合わせて白倉城と呼ばれ、別城一郭(双子城とも言って、二つの城が一人の城主のもとに相助けて戦う構造)の形態といわれている。(甘楽町HP参照)城マニアの間ではそこそこ知名度のある麻場城。城主の白倉氏は上州八家(小幡・白倉・安中・倉賀野・桐生・由良・山上・沼田)の一つ...

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第34回 「白河院の伝言」

1168年、突然熱病におかされ意識を失い、病床に伏した平清盛(松山ケンイチ)。薬師(くすし)の診断で原因は寸白(すばく・寄生虫)と判明したものの、手元の薬では治せず、祈るよりほかに手だてはない。万一の事態も覚悟し、今は落ち着いてなすべきことをせよと、時子(深田恭子)は一門に命じる。清盛危篤の知らせは、たちまち都のみならず、后の滋子(成海璃子)とともに熊野詣でに向かう途上の後白河上皇(松田翔太)や、果て...

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KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。毎日欠かさず生野菜摂取中。
© 2010 城館探訪記

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